日本古典教育の必要性/東條英機署名の感謝状/皇室の風景

Posted at 05/10/21

昨日は朝少しラテン語の勉強をした後松本に出かけ、仕事。天気がよくて二キロ強の道のりを歩くのもさして苦にならない。どういうわけだか少し疲れたが、予定通り戻ってきてまた夜は仕事。後片付けと原稿の校正など。ここのところ木曜日は忙しいので、なかなか金曜日の朝に書くこともない。

松本への行き帰りに『プリニウス書簡集』を読む。なかなか一筋縄では読みきれないが、ラテン語の勉強もそうだけど、こうした古典を読んでいると、欧米のインテリゲンツィアの世界を理解するのにそこはかとない自信が出てくる。漢文古典をそれなりにきちんと読みこなしておくと中華世界における知識人たちに対してそんなに気が引けないのと同じなのだなと思う。日本ではそうした思想性のある古典というとどんなところになるか、一度整理してみなければいけないと思うが、『古事記』『日本書紀』から始まって実際にはかなりいろいろある気がする。しかし、日本の古典学習はそういう思想性よりも文学性を重視しすぎてきるので、今一つ日本人の精神的な来歴というものにきちんとした自信を持てなくなっているのではないかと思う。恐らく戦前はそうしたものも『修身』のなかに含まれたのだろう。『修身』を復活せよという主張はあまりに政治的過ぎる気がするが、「日本の思想的古典」をきちんと押さえることは、個々人の主張の左右に関わりなく必要なことだと思う。教育改革においてはそういうことも主張されてよいように思う。

クライン孝子氏の日記を読んでいたら『東條英機宣誓供述書』の話と東條の孫の東條由布子氏の靖国神社におけるサイン会の話が掲載されていた。「皆祖父を慈しんで下さり、熱心な方々ばかりで祖父を懐かしがって泣かれる人、思い出の写真を持って来られる人、東條英機の署名がある感謝状をわざわざ持ってきて見せてくださる人、アルバムから、一緒に写った写真をはがして持って来られた人、遠くは沖縄から飛行機で見えた人」もおられたという話にちょっと胸が熱くなった。左翼論壇だけでなく戦後の歴史のなかでも散々に言われた東條元首相の署名のある感謝状や写真を大事に取っていた人たちがいる、ということは、なんだか日本人として救われる気持ちになる。

私の祖父も若いころ製糸会社の仕事で全国に出張するなかで、七三一石井部隊の石井部隊長の地元もよく訪れ、可愛がってもらったと懐かしそうに言っていた。祖父が亡くなってもう6年になろうか、そういう話の記憶があると、左翼論壇や小説家が描き出す鬼か悪魔のようなイメージだけでなく、人間としての側面や真実はどうだったのかということについて考え直せるきっかけになる。戦後は気散らかされた膨大な言説の壁、あるいは深い火山灰のような言説の地層は厚いが、いずれはポンペイの死者たちのように真実の姿がよみがえることもあるかもしれない。

東條由布子氏も「ふと靖国神社から日本は変わってゆくような、そんな気がした幸せな一日でした。」とかいておられるが、いろんな意味で靖国から日本が変わっていくということはあるかもしれない。というか、実は私も靖国神社に参拝するとそういう気持ちになることがよくあるのである。毛嫌いされている方や恐ろしいところという先入観がある方も多いとは思うが、一度参拝されると世界が大きく違って見えることもあるのではないかと思う。

***

皇后陛下のお誕生日に際しての文書での回答の全文を読む。なんだかまた涙腺が弱くなったような思いをしたが、読売新聞で抄録されていた内容の数倍胸を打つ内容であった。那須の開拓地に秋篠宮眞子内親王をお連れになって入植者の話を聞いた話や、紀宮殿下の思い出のことなど、皇后陛下が日ごろどのように皇室の若い世代に接しておられるかがよくわかり、頭が下がる思いがする。皇位継承に関する有識者会議等の議事内容を読んでいるといったいどこの国の皇室の話なのかと腹立たしく思うことが多いが、そうしたものと対極にあって皇后陛下が現在の皇室にあって本当に回りのことに気を配っていらっしゃる様子がうかがえる。

さて、私もなんだかやる気が出てきた。一日のやるべきことをきちんとやらなければと思う。

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