『渋井真帆の日経新聞読みこなし隊』/創造的生命観と初発的生命観

Posted at 05/10/19

昨日。朝は家事諸々を片付けた後、10時過ぎに出発。雨が降っていたので久しぶりにバスに乗る。東京駅で往復の切符の予約を取った後、丸ノ内に戻って丸善で本を物色。前回丸善に行った時に気になっていた『渋井真帆の日経新聞読みこなし隊』(日本経済新聞社,2005)を買う。前回来たとき丸善で売上ランキングの高いところにいたので地元の書店でも売っているかと思い探したのだが見つからなかった。今回はもうランキングからは落ちていたが、比較的容易に見つかった。

今回の帰郷の持参本はこれで5冊。やりかけのラテン語教本以外には昨日買った山本博文『男の嫉妬』、セネカ『幸福な生活について』、『黙霖・松陰往復書簡』。いや、『プリニウス書簡集』もあるから全部で6冊だ。ラテン3、幕末2、現代1、という配分。これが現在の関心を反映しているかというとどうかなとは思う。

丸善地下の神戸屋キッチンでオムライス弁当を買って電車に乗る。特急の車中で読んだのはほとんど『日経新聞読みこなし隊』で、結局茅野あたりで読了した。この本は経済の入門書としてはとてもよくできていると思う。経済と言うものをわかりやすく説明した本と言うのはあまりないと思う。どんな分野でもそうだが、本当にわかりやすく説明すると言うのは明らかに相当大きな才能だ。それも、経済と言う多くの人がわかりたがっているものをこれだけわかりやすく、また勉強の方法も含めて開陳しているこの本は教科書としても使えるのではないかと思う。

実際、経済に関しては各種のセミナーが開かれていてみんな一生懸命勉強しているようだが、この本を読んでいると逆にどういう感じの需要があるのかということが分かって面白いという面もある。経済と言うものには私などは疎い方だが、どういうところに着眼して膨大な経済記事の掲載された日経新聞を読めばよいか、どういうふうに見れば興味が湧くか、といったことをソフトな語り口で説明していて、そういうところも勉強になる。

いくつかポイントをまとめると、経済記事を「個人」「企業」「国」の三要素に分けて把握すること。一つのニュースでもその3要素から見ればどういうことが言えるかを考えて整理しておくこと。これは当然のことのようで私などからするとコロンブスの卵という感じで非常に目から鱗が落ちた。

また日経新聞の記事の大半を占める企業関係の記事については、企業活動のプロセスが①資金調達②投資・運用(雇用、生産等も含め)③営業・販売・納税④株主への利益配分・内部留保⑤以上のプロセスを仕切る経営者の選任、の5つから成っていることを理解し、その記事がそのプロセスのどれにあたるのかを考えて読めば、その会社がいまどのように動いているかがわかる、ということである。これも当たり前のようだが、私などの門外漢から見るとまるで魔法の杖を振られたようにあっという間に腑に落ちた。まあどんな分野でも分析方法と言うよく切れる刀を持てば物事を理解できる、というのを経済の分野で鮮やかに示してもらったと言う感じだ。

***

『男の嫉妬』は戦国期・江戸期の武士の名誉心の争いを「嫉妬」と見たてていろいろな実例を示しつつ描いているのだが、まあ自負とか誇りとかいう物を「嫉妬」と見てしまうとずいぶん矮小化されるものだなと感じた。一方で、武士の「誇り」による争いと幕府の「裁定」のギャップもまた興味深い。武辺を抑え、武士を奉公を尽くさせる官僚化しようという幕府の方針と、本来の武士の猛々しさの対比である。いずれにしてもまだ読みかけなので最終的な評価は出来ない。例えば現代の政治家の嫉妬による足の引っ張り合いと共通するものを見出そうとしている感じが無きにもしもあらずなのだが、興味深さとデリカシーに関する嫌らしさとその両方を感じている。

『往復書簡』の中で神道的な世界観が書かれているのだが、自分なりに整理してみるとキリスト教文明的な生命観というのはいわば創造的(設計的)生命観、神道的・日本的な生命観は初発的(自生的)生命観といえるのではないかととらえた。

つまり、キリスト教的な見方は世界は神が創造したものであり、ということは全ては神が設計したものであるということになるわけで、例えばDNAなどはまさに「神の生命設計書」である、というとらえ方が存在していると思う。つまり、神によって書かれた設計書を人間が解読して、人間が神にとって変わって生命を創造しようという企みが生命科学というものを支えるある種の裏の情熱なのではないか。コスモス(秩序)的世界観と言い換えてもよい。

一方で神道の場合は「創造者」はいない。古事記に寄れば、「天地初発時」つまり「あめつちはじめてひらけしとき」、神は高天原に自ら生まれた。それと同様に万物は設計により創造されたのではなく、自ら何物かを種にして生まれてきたもの、ということで、だから何が生まれてきてもおかしくない。いわばカオス(混沌)的な世界観とでも言うべきものではないか。そう考えると世界はどこまで行っても未知なもので、むしろそこにこそ生命の秘密があるということになる。

言いかえると、創造的世界観は世界を説明するある原理が存在する、という発想から出発しており、その原理を読み解くことが科学である、と考えることになろう。自然科学とは神が書いた自然という書を読み解くことだ、という言葉をどこかで読んだが、そういうことを言っているのだと思う。

一方で、初発的世界観は原理というよりも生まれようとするいのちの力、生命力というべきものが根本にある、という発想から出発しているということになる。その力をとらえようとしたのが東洋医学の「気」の理論だということになろう。私も完全に理解しているわけではないが、たとば今西錦司のいわゆる「今西進化論」やベルグソンの思想などはそういう系譜を引いているのではないかと思う。

まあなんだか自分自身は少数派だと毎日書いているような気がするが、こういう見方でも初発的世界観の方に共感はする。分析的科学は手段や方法論であって世界の構造そのものではないと思うし。

まだ広がりそうだが、とりあえず今日は考えたことを記しておくに留める。

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