イギリスの風景/『日露戦争史』/『国家の自縛』/「動法と内観的身体」

Posted at 05/10/12

朝たまたまテレビをつけたらBSで西部邁がイギリスに滞在していた時代の思い出の地を訪ねるという番組をやっていて終わりまで見た。イギリスのあの風景が好きだという日本人は多いだろうなと思う。私は、エンクロージャー以前のブリテンは鬱蒼とした森だった、という話を思い出してしまうので、ついある種の自然破壊の結果だと思ってしまうのだが、それも含めてイギリス人の作った心の風景であるということは言えるなと思う。あんなにだだっ広い風景では、そこにロビン・フッドが潜むことは不可能だったに違いない。

しかし西部が語ることは本当にそうだなと思う。自分が歴史の中に生きているということを、自分たちが作り出した風景も含めて、文字通りに彼らは感じられるに違いないと思う。そうした環境にあってこそ、ひとはより深く生の意味を感じられるのではないか。日本で人工というにはお粗末な環境の中で暮らしていると、2000年前から続く村で暮らした経験というのが貴重なものに感じられるのもわかる気がする。

悠久と言うのはそういう中で暮らしている人々の心の態度であって、物質的なものではない。同じように古い国であるはずの日本でそうした心の態度がないのは、物質的に古いものが維持されていないということだけではなく、何か今の日本人の『生』の中にヴァイタルなものが欠けているからではないかという気がする。

昨日帰郷。特急の中で、横手慎二『日露戦争史』(中公新書)と佐藤優『国家の自縛』(産経新聞社)を読了。どちらも読みかけだったのだが、他のことの出来ない列車の中というのはうまくすると読書が進むので、最近列車の中で読了ということが多い。

『日露戦争史』はロシア側の研究書をうまく生かしてロシア側の戦争に臨む事情を描き出しているところが興味深い。外交官経験もある人なので、戦力均衡論的な視点で20世紀初頭の東アジア情勢を論じる姿勢が貫かれているところが新鮮な感じだ。昭和20年8月の「ソ連参戦」を「第二次日露戦争」ととらえているところが特に新鮮で、言われてみると「大東亜戦争」を「日中戦争」「日米戦争」「日英戦争」「日蘭戦争」「日豪戦争」等に分類し、それに「日ソ戦争」を加えてその集合体と考えてみた方が戦争の全体像がつかめるな、という発想を得た。ノモンハンなどは「日ソ戦争」であり「日蒙戦争」でもあるということになろうか。「無謀な戦争」とひとくくりにするより、戦争は外交の延長と言うクラウゼヴィッツの言を再確認して、それぞれの国との外交関係等をそれぞれに分析していくことは「20世紀中盤における日本」の新たな像を構築するのに有用であろうと思った。

『国家の自縛』は、「ネオコン」を単なる奇形的なナショナリズムととらえるのではなく、現代政治思想史においてきちんと位置付ける必要があるということを強く主張していて、佐藤氏の目は曇りないものがあるなという感想を持つ。彼が言及するさまざまな思想は彼の研究の独特のスタンスから見たものである部分が多く、ケインズと言いハイエクというが日本で彼らが言及されるイメージとは若干のずれがある。彼はロシア外交がそのフィールドであったから、外交についても「ロシアとの外交」を基準にしている感覚を持っているし、そこにおけるユダヤ人の重要性から、思想の理解もユダヤ人たちによる思想理解に影響を受けている感じがする。佐藤氏自身がプロテスタントであり同志社大学の神学部の出身と言う思想的な少数者であるわけだが、恐らくはヨーロッパに行けば彼の思想理解の方が多くの日本人の語る西欧思想理解よりも支持を受けるのだろうと言う気はする。

しかし私とて日本人の西欧思想理解の文脈を外れることはなかなか難しいし、外れて彼らと同様の理解に達する前に日本人的な理解も彼らのような理解も出来ず自分が何者かわからなくなって思想的な漂流をしてしまうのではないかという気がする。しかしまあ、少し勉強するとそういう思想の俗流の日本的な理解と言うものがいかに不十分なものであるかということはすぐに感じられる。そして彼我の間にある思想理解のための前提自体に、大きな断絶を感じざるを得ない。そのどちらをも客観的に見据えるためには両者のメインストリームから外れて独自の視座を築かなければならないが、日常で生活しながらそういう視座を築くためには相当強靭な意志の力が必要だ。なかなかそれがやりきれないのは、断絶の深さによるものだけではない。

マルクス主義と言う大きな物語が崩壊した後、西欧でもロシアでも予定調和説で神学的・哲学的対立を乗り越えたライプニッツ・モデルが実質的に採用されていると佐藤氏は言うのだが、まずライプニッツの思想と言うもの自体が難解で、モナドとはデカルトの自我論をアリストテレスの「形相―質料」論で説明したもの、と言われてもそれが予定調和と言う考え方とどうつながるのかちょっと勘所が理解できない。

しかし「神皇正統記」が日本の思想の根幹を明らかにしていると言う主張は思ったより納得できた。北畠親房は「大日本者神国也」と言う言葉で全てを説明していると言い、「神国とは自己を掘り下げる内在性の中に超越性があり、自己の原理を他者に押し付けない国家で、道義性において他国から一目置かれることを目指す国家であると。」と説明している。つまり、「寛容の精神、合理的精神で自己の文化を発展させ、他の世界もちゃんと理解するようなことは、異朝にその類を見ない。われわれが誇れるものはそういった寛容の精神」であり、それこそが「日本の国体」なんだというわけである。

確かにわれわれはそういうことを当たり前だと思っているが、そういうことをやっている国民がほかにあるかというとそんなにはない、と思う。『神皇正統記』は古文でも読みやすい本だし「神国論」などというと国学的なうわぁあどろどろ、みたいな印象があるが全然そういう本ではないということは以前から知っていた。しかし、そういう取り出し方をされてみるとなるほどなと思う。物を見る視点と言うのはどうしても一人の人間では限られてしまうから、こういう指摘は非常に刺激的だ。

小淵沢を過ぎたころに読了し、野口裕之「動法と内観的身体」に取りかかる。これは衝撃的な論文だ。身体教育研究所のサイトにこの論文だけがアップされていると言うのは急所を突いた配慮である。この論文には野口氏の思想やスタンスの全体像がなんの虚飾もなく書かれている。日本人の伝統芸能や過去の人々の日常動作の共通した基盤となっている動きを「動法」と名づけ、その原理の追求と稽古法を開発する、という最初の言を見るだけですごいことをやっているのだなとからだの芯に共鳴するようなことばの響きを感じた。
具体的には両手両足の小指が体の動きの軸になるとか、左手の親指を曲げずに茶碗を持つと腰が入るとか、そういう指摘そのものも驚きに満ちた新鮮さがある。こういうことをこういう書き方をしてどのくらい読む人に伝わるのかはわからないが、少なくとも自分自身の心覚えとしては残しておきたい。

午後から夜は仕事。ラテン語は少しだけ進んだ。

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