「面白い人間を目指す」ことの危険性

Posted at 05/09/26

生協の白石さんだが、こちらによると昨年までは早稲田の文学部生協にいたという。とすると、やはり約20年前には東大駒場キャンパスにいたという私の記憶は間違いではない可能性もでてきた…かな。しかし、当時も生協の品揃えカードへの回答を熟読している「マニア」がいたのは確かだ。「白石さん」のような回答者がいなければそんなに読まないと思うんだが。

ジーニアス和英辞典は「タイガースはセリーグ優勝に王手をかけた」などの例文が30くらい掲載されているという。一部地域では売れそうだ。

ソウルの料理店のキムチが半数は中国産だったという。嫌な予感がして冷蔵庫の中のキムチの原産国表示を見たら案の定「中国」と書いてあった。もはや韓国産は高級品か。

洗濯物を干しながら立川談志の言ったことについてつらつら考えていた。ジョークというのは短いほどいい、というのがルールだ、というのはそうだなと思う。つまり、「となりの空き地に囲いが出来たね」「へえ、かっこいい」よりも、「囲いが出来たね」「へえ」の方がいいという理論である。確かに短ければ短いほど切れ味が鋭くなるし緊張感が高まる。そしてぼんやりしているやつは置いていかれる。つまりぼんやりしているやつは置いていってしまえ、ついてこられるやつだけついて来い、という理論である。私はこういうセンスは嫌いではない。

「私は真実はないと思う、あるのは事実だけなんじゃないかな」という発言はどうか。これは、私はある意味典型的な日本人の発想で、まあいわば実証主義的なニヒリズムとでもいうべきものだと思う。真実というのは主観で、事実というのは客観だ、主観は事実ではない、といえばそうかもしれないが世界を動かすのは共同的な主観であるから敢えてそれに異を唱えるのは彼の商売からしたら正道だとは言える。ただしかし、あるジョークが面白い、というのはやはり究極的には主観的真実なのではないか。それともそれを客観的事実と認識しているのか。もしそうなら、そこに談志の天才性が実は隠れているのかもしれない。普通の人間にできない認識を持っていなければ、天才にはなれない。ただし持っていてもなれるとは限らない、ただの変人という人はいくらでもいる。

まあでも、談志という人はやはり根本的にニヒリストの面はあるんじゃないかなと思うし、だから面白いんだろうと思う。これもまた、ニヒリストであればだれでも面白いというわけではない。面白くもないニヒリストは私の一番嫌いなタイプである。

で、たぶん、好きな人が面白いとは限らんのではないかな。人にとって本当に面白いのは、本当に嫌いなやつと紙一重の人間なのかもしれない。そういう意味で、面白い人間というのは四捨五入すれば危険人物でもある。そしてそういう意味で言えば面白い人間を目指すという行き方は下手をすれば地獄への最短距離である可能性があるのだ、と思う。

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