わかりたいという暗い情熱

Posted at 05/09/21

昨日帰郷。夜は結構暑かったが、朝はかなり涼しいというか寒い。じっとしていると冷えてくる感じ。気温はどのくらいなのだろうか。空気もかなり乾燥してきている。明らかに東京と季節が異なっている。

特急の中ではなにも読まずに過ごした。目と頭を休めたいと思って少し眠る。しかし全行程眠り続けるにはからだは活性化していたので、結局いろいろのアイデアがぽつりと浮かんでは消え、時にそれを追いかけ、時にそれを放したりしていた。

自分にとっては、「わかる」「理解する」ということが本当に大事、というか実存というのか、それへの情熱というものが確かに有る。それはどちらかというと暗く熱を帯びた情熱、地下のマグマのようなものだなと思う。デカルトは思う、考えるということに疑い得ない自分というものを見出したが、自分にとってはそれは「わかる」という精神作用だなと思う。また、その作用自体を「なぜそれが存在しているのか」ということを説明することはできない。デカルトの哲学は合理主義哲学といわれるが、ここの部分は実は合理もへったくれもなく、考えるというデーモン的な情熱が存在すると告白していると考えるべきなのではないかと思った。

まあそれは私に限らないだろうけど、「わからない」と全てが止まってしまう、ことがある。そしてそれは考えることで乗り越えることが出来ないものもたくさんある。だからその部分は永遠の自問自答が繰り返されることになるのだが、結局それはわからないままにしておくしかないときもある。吉田拓郎が「そうですわからないまま生きていく/明日からのそんな私です」という歌詞はある意味絶望的に聞こえたのだが、なんというか事実として受け入れざるを得ない場面も実に多い。

結局、それに執着してはいけない、というほどのことなのだろうが、確かに執着するほどものや人を愛したりすると、わからないという思いもどんどん蓄積されてきて、それを失うと全てが止まるしかなくなってしまうのだろう。そのときは、「わかりたい」ということよりも「こうだ」とか「こうであるはずだ」という念じの方が強くなっていて、それがそうでないという気がしてくると念じは焦りに変わり、「なぜだ」というわからなさが自分を占領していくということなのかもしれない。ということは、わからないのではなく、結局最初からわかろうとしていなかった、ということになるが。

人はわかる、わかっているという領域を増やしたいのだなと思う。だから一度わかったつもりになったことはなるべく疑いたくない。わかったはずのことがわからなくなるとどこからがわからないことでどこからがわかっていることかわからなくなるからだ。それは自分を侵食する恐怖なのだ。その恐怖に向かい合いたくない、向かい合うことをおそれるとわかるという努力が念じに振り向けられ、わかるということからどんどん遠ざかってしまう。

なんか最初に書き始めたことと話がずれている気がする。いや、ずれていないのかもしれない。つまり、そういう精神的経験があったからこそ「わかる」ということに闇雲な情熱を抱いているのかもしれない、ということだが。

「わかる」ということは「知る」ということだが、「知る」ということは強い力を持っている。人を支配することができるほどに。だからわかりたいという情熱もまた、もちろん元来私的な営みではあるのだが、知の形成ということにおいてある意味公的・社会的な性質を持ってこざるを得ないのだな、ということをつらつらと考えていた。

なんだか思考があまり働かないときにこういうことを考え始めるとうまくまとめられなくなる。外は子どもの声。登校時間だ。私もそろそろ出かけなくては。

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