本当の終戦/自衛隊差別/災害と貧困/Google Earth/疑問/最も信用できない人/心中の復旧

Posted at 05/09/04

一昨日帰京。帰りの特急では『美味しんぼ』の最新巻と『八月十五日の神話』を読む。お盆ラジオ-高校野球-八月戦争報道の関連性は面白いと思ったが、「国民の多くが甲子園大会に鎮魂の行事を期待している」というのはやや牽強付会ではないか。この指摘に関しては少々首をひねったが、それ以外は史実を含めへえと思わされることが多い。

特に、八月十五日を終戦とするのは日本が発信源であって、ミズーリ休戦協定の9月2日をVJデイとするアメリカあるいは通常の敗戦記念日と一線を画しているという指摘はそれ自体は前から知っていたが重視しなければならない。韓国の光復節が八月十五日なのはこの日に日本の統治が事実上「死に体」になったからであって、現実に日本の統治が終わったわけではない。占領中は9月2日が重視され、独立回復後は八月十五日が重視されるようになったという経緯も統治者の意図と月遅れ盆の伝統的古層の双方あるという指摘は分かりやすい。

ところでソ連の対日戦勝記念日は9月3日である。これは根拠は明確ではないようだが、著者の推測によると北方領土の占領のめどがついた日だという。歯舞諸島にソ連軍が上陸したのが9月3日、占領したのが5日なのだという。休戦協定が結ばれてからもソ連は軍事行動を続けていたのである。このあたり、歯舞作戦を正当化する理屈もあるかもしれない。しかしこうしたソ連の侵略行為は竹島を侵略した韓国のやり方と似ているところがある。

で、中国も戦勝記念日は9月3日なのだが、これはもともとが8月15日だったのが毛沢東の指示により満州の再征服(原文では東北解放)に成功したのはソ連の出兵のおかげだという感謝の記述とともに変更されたということだから、ソ連にあわせたと考えてよい。今年も「抗日戦」勝利記念式典を馬鹿馬鹿しく盛大にやっていたが、日本側がほとんど参列しなかったのは見識と言ってよいだろう。読売新聞は対日協調のわずかな部分のみを強調しているようだが、ミスリードではないだろうか。

アメリカのハリケーン被害に対して、中国は500万ドルを拠出するという。本当に出すかどうかはわからないが、こういうものはバーンと出す、といったもの勝ちである。日本は50万ドル。中国の10分の1というのはひどすぎる。政治の空白の悪影響といってよいのだろうか。私は読んでいないが、週刊文春には良かったはずの日米関係が悪化しているという記事が載っているらしい。外交関係の唯一の得点であるはずの日米関係をしくじっていたら、小泉政権の外交成果はいったい何が残るのか。

政治の空白の原因になった総選挙だが、イラクに派遣されている陸上自衛隊の隊員たちは投票することができないのだという。防衛庁は総務省に投票できるよう要請したようだが、隊員たちが住民票を移していないことなどをタテに総務省は拒絶したのだという。海上自衛隊のほうは艦船上で投票できるようで、どうも変である。公務で危険な地に派遣されているのに選挙権も確保されないというのは、ある種の自衛隊差別というか自衛隊イジメの風土が今でも続いているのではないかと感じざるを得ない。海外在住者の投票についてはもっと可能性を広げるべきだと思うし、選挙登録をしてから数ヶ月たたないといけないとかの規定も国内のように住民票を移動することで特定の候補を当選させようというそういうせこい政党の影響力がそうあるわけではないだろうし、もう少し緩めてもいいのではないか。海外にいる日本人の方がよっぽど「日本」というものを意識している。「日本」はそれにもっと応えてよいのではないだろうか。

ハリケーンの被害についていろいろなコメントを見ていて思うが、人によってアメリカのイメージが違うのだなと思う。私は南部の方に主に行った(旅行しただけだが)せいか、今テレビに映っているニュー・オーリンズのあのどうしようもないさまがアメリカだと感じる面が強い。あの洪水、確かにカリフォルニアやボストンで起こったらああはならなかっただろう。だが結局、アメリカの中の「見捨てられた部分」というのはああいうものなのだと思う。ああいうアメリカもある、ということは日本人はもっと認識してよいことだと思う。例えビジネスパートナーにはならないにしても。

それに関連して極東ブログを読んでいてGoogle Earthというソフトの存在を知る。ニューオーリンズの壊滅的な被害の写真なども載せられている。このgoogle earthでは航空(衛星?)写真で世界中の地形を見ることが出来る。ためしに私の住んでいるところを見てみると、私の住んでいる高層住宅の形まで鮮明に写っていた。影が東に伸びて、夕方に撮った写真が元になっていることも良く分かった。

それに関連し、同じ極東ブログの記事の中に、六本木の米軍へリポートの話が出ていた。このへリポートは青山墓地に隣接したところにあるが、地図には記載されていない。単に空白になっているだけである。Google Earthでみるとややぼかされてはいるが、ヘリポートの感じはよくわかる。

以上でお分かりだと思うが、このGoogle Earthでは東京の建物配置なども鮮明に分かるし、紫禁城の配置、果ては平壌の市街地の様子まで鮮明に写っている。グランドキャニオンを斜めから見たものなども載せられている。そんなものを探り始めるときりがないが、驚かされるものである。詳しい緯度経度さえ分かれば地球上どこでも見ることが出来る。韓国では青瓦台(大統領官邸)の様子が丸見えなのを非常に問題視しているらしい。それこそ軍事機密なのだろう。アメリカの軍事技術が民間でも使えるようになったということだろうが、もう地形図というのは機密ですらないのだなと思う。豪い時代である。

***

月刊MOKUで長田百合子氏の文章を読む。彼女がメンタルケアをしたある家族についての記述なのだが、精神科医の対応についての疑問で、万引きをして補導されたり、暴力を振るって大暴れするヤンキー系、ニート系の遊び人タイプには病気ではないといって絶対に近づかず、おとなしくて無口な引きこもり系ばかりを病気と称して治療の対象にする、ということを書いていた。

簡単に言えば、本当に問題のあり治療を要する子どもがきつい言い方をすれば見捨てられている現状があるということであろう。

しかし、われわれの側にも内にこもるタイプの方が病気に思え、発散するタイプの方は多少わけのわからないことをほざいていても病気とは見ないという偏見があるのではないかという気がする。

私は十分な専門的な知識がないので長田氏の記述の妥当性はよくわからないが、教育現場での経験から言えば十分にありえることだという気がする。

壊れているのはアメリカだけではない。

* * *

なんか今日は書くことが色々たまっていて一貫性がない。

日本の政治についてだが、最近はちょっと小泉首相の路線に対する疑問の方が強くなってきている。民主党が政権をとって対中土下座外交が復活するのも嫌だが、小泉首相が日本をどこに連れて行こうとしているのかよくわからない。私自身の投票行動については今ここでは書かないが、今までとは多少違うものになるかもしれないと思い始めている。

しかし、報道機関の分析ではどこも自民党圧勝の勢いのようである。そうなるとますますこちらの臍は曲がりそうだが。

アメリカのハリケーンでの社会の混乱に対し、日本ではああはならないという論調のブログや日記を良く見るが、同じような災害に際して、現時点でああはならないとは思うけれども、それは日本の方が災害によく遭う国なので、皆が慣れているということが大きいと思う。台風の水害は最近は数千人も死ぬような大きなものはないけれども、地震に関してはいつ起こってもおかしくないということは織り込み済みで生きている。ニュー・オーリンズの市民の口ぶりを聞いているとやはり災害の危険に対する理解度・危機意識が日本に比べると低いとは思う。

しかし、戦前まではあの程度の大災害は日本でも珍しいものではなかった。そして、その被害を受けるのは貧困層が中心であったことは確かである。安政大地震で母を助けようとした藤田東湖が圧死したり、戦時中の鳥取大地震で六代目大谷友右衛門(現雀右衛門の父)が全ての人を避難させてから劇場の様子を見に戻り死んだというのはむしろ沈み行く船の中で船長だけがただ一人残るというような一種のノブレス=オブリッジであって主な犠牲者が貧困層であることは間違いないだろう。今の日本では、少なくとも目に見える範囲内では「想像を絶するような貧困」というものはなくなっている。それがアメリカにはまだある、というだけのことである。日本がそういう状態に逆戻りすることがあるのかどうか、ちょっと私には想像がつかない。貧富の差は具体的にはどんな形で現れるようになるのだろうか。

最も、アメリカでは「最も富裕で本当の権力を握っている層(パワー・エリート)と最も貧困な層は目に見えない」という言葉があるらしい。日本でも、雲の上と地面の下にいる人は一般ピープルには見えないということはあるのではないかということは思っていたほうがいいのだと思う。

* * *

最も信用できないのは子どもの味方づらする大人だ、ということを昨日ふと感じたのだが、何がそう感じさせたのかは忘れた。教育という仕事が辛いのは、そういう偽善的なことを組織の中で自分の意志に反してやらざるを得ない場面があるということだなと思う。教育ということに多分組織は必要なのだと思うが、私のように協調性のない人間は自分の信じたように子どもに対面したいから組織によるおためごかしの強制などというものは非常に苦痛で、そのあたりにも耐えられなかったのだなと今では思う。

そしてそのあたりの反感は、被害者の味方づらして正義を気取る人や、アジアの味方づらして日本を攻撃して悦に入る人に対する反感にも自動的につながっているようだ。

しかし反感からだけでは生産的な仕事は出来ない。自分の中に整理しても仕切れないものがまだまだ沢山あるということが、また再び見えてきた。それにしても自分の心の中というのはニュー・オリンズの大洪水ではないが瓦礫の山のようなものだなという気がする。武装強盗のようなものはあまり出現していないとは思うが、多分ゼロではないだろうな。
他国の被害を云々する前に(日本政府にはもっと大胆な援助を期待したいが)自分の心の中の災害復旧を進めなければいけないなと思う。

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