アメリカ人の集団主義と日本人の個人主義(ヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』を読んで)

Posted at 05/08/03

きのうは午前中に家を出て東京駅へ。切符を確保し丸善をのぞき昼食用にカツサンドを買って中央線に乗る。新宿からの特急の中でいくつか本を読む。チャンネルをザッピングするように、少し読んでは他の本に切りかえる、という感じだったが、結局きちんと読んだのはヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」だった。角川文庫の同名の短編集を読んでいて、その最後から2番目に表題作が掲載されているのである。それまでの短編がどれも比較的短いのに対し、「キリマンジャロの雪」は50ページもあって「長い短編」といわれているのだという。

この小説はいわば愛と死というものをテーマにしたものといってよいと思うが、愛と死とが全然別に存在しているという感じがヘミングウェイの孤独感のようなものが現われていていいと思った。私は小説というものをそうたくさん読んではいないので批評をしても凡百のものになるとは思うが、ちょっと試みてみたいと思う。いや、というより恐らく批評になる前の書き散らしという感じになるだろう。思いつくまま。

まず第一に、これを読んでヘミングウェイの作品をもっと読みたいと思った、ということを書いておこう。アフリカの狩りで怪我をしたアメリカ人の男が妻の献身的な介護にいろいろと悪態をつきながら過去を回想し、そのいくつかの断片的な回想をそれぞれ小説にするという構想が果たせぬまま死んで行き、今わの際に救出される飛行機の中でキリマンジャロの雪を見る、という幻想を見る、という話であるが、その設定も秀逸だし断片的に語られるいくつかのエピソードもまた酷く魅力的だ。現実の世界での現在の妻とのやり取りも面白いし、その妻についてのさまざまな回想、上流の社交の話などもいい。その一つ一つがすべてもっと大きな話の中心に据えて語れそうでありながら、過不足なくカットバックされて終焉に流れ込んでいく、そういうつくりのうまさにも感動する。

と、今書きながら思ったが、これは要するにある種の、というか自分が好きな種類の演劇と同じような構成になっていて、その感動のつぼみたいなものに実にうまくぴったりとはまっているということに気がついた。なんというか、正直言って感動して当たり前のような小説なんだな。私にとっては。

なんというか、構成が明確なところが私にとっては心地いい。小説を読むためには緊張感があったほうがいい場合もあるが、人知れず近づいてくる死というものをテーマにすると、ある種の心地よさのなかで走馬灯のように記憶がフラッシュバックしながら終局に近づいていくという構成が一番ぴったりとはまると思う。こうした構成の明確さは日本の小説にはあまり感じられないもので、恐らくそういうところがあんまり自分が面白いと思わないところなんだろうなと思った。

しかし、いろいろ読んでみて一番感じるのは、ヘミングウェイという人にはどうも一番根本のところに暗いものがあるということである。彼は昂揚はするが、酔うことはない。何も信じることのできない近代人の、その根本的な暗さが、彼の作品の特徴であるような気がする。神はもちろん、愛も、小説も戦争も革命も政治も金も豊かな生活も冒険ももちろん文学も、本当には信じていない。作家というものは、というより人間というものは、恐らくは今あげた中のどれかは信じていることが多いように思う。ヘミングウェイは何かを信じたくてそれらのすべてを実際にやってみたのだろう。しかし最終的に彼が選んだのは自らの命を絶つことだった。私の生まれる13ヶ月前のことだ。

アメリカ人というのはそんなものかな、と思うことがある。結構何かを軽薄に信じているような気が本人はしているが、本当には何も信じていないんじゃないかと。つまり、信じるというより、「私はこれを信じているということに自分ではしている」という感じなのである。ヘミングウェイはその欺瞞性に耐えられなかったのだろうなと思う。アメリカ人は強固のようでいて、一人一人を見ると結構いろんな不安を抱えている人が多い。変な思いこみをしている人も多い。彼らが強力なのは、そのよくわからない思いこみを集団で共有することが実に得意だということである。あっという間に一色になる。

日本人が集団主義でアメリカ人が個人主義だとよくいうが、私は絶対うそだと思っている。ある建前を正しいと信じようということになったとき、その建前への忠実度はアメリカ人の方が絶対的に高いし、はっきり言ってそれに関しては思考停止していて、疑うということもしない。だから集団でそれを思いこんで敵を一気に殲滅することができるのである。日本人はいつまでもその建前が正しいかどうかぐずぐず考えていて、決断を迫られるとけつをまくったり、面倒な人たちだ。従った顔をしていても、心の中では全然従ってなかったりする。もちろんそれが動き出すとだんだんまあいいかという気がしてきてあまりいろいろ言わなくなり、今度は建前が絶対化してきてフレキシブルさを失うという感じがする。つまり、ある物事をやろうというときに、立ちあがりがアメリカ人の集団の方が絶対的に早いし、止める決断も早い、ということである。集団の効用というものをよく知っているのは彼らの方で、我々は集団に属することは嫌いではないけれどもその中で出来るだけ勝手なことをやりたいという志向が強いため、第2次世界大戦などでも現場の暴走で失敗を重ねることになったのだ、と思う。

話はずれたが、まあ極論を言うとアメリカ人は「偽善によって団結する」のがうまい、ということである。ヘミングウェイはその偽善の部分についに安住できなかったのだという言い方も成り立つだろう。

しかしまあ、人間というのは本来そういうアメリカ人たちのようなものかもしれないなとも思う。ある種の観念というものを用いるなら、それが人々がまとまるように、行動を起こせるように用いるべきものだろう。そういう使い方はエネルギーを必要とするものだし、やはりそこにはアメリカの文明としての若々しさというようなものを感じる。そんなに宗教心がなくても、日本人の多くはやはり所詮この世は仮の宿り、と思っているような気がする。その中で、集団的に新しいものを構築するのにエネルギーを使うより、個人で出来る細部になるべくこだわろうという傾向が強いのではないか。

なんだかヘミングウェイとはだいぶ離れた話になってきた。

文学論でこういう国民性論のような大きな話に話を広げてしまうのはあまりよくないのだと思う、特に日本では。独白の手法はジョイスの影響を受けているようだ、とかそういう話を書いたほうが好まれるのだろうな。

しかし、結局私が物を読むと、この同じ世界に生まれた人がどんなことを考え、どんなことをして何を大事に思い、生き、そして死んでいったのか、というようなことしか関心がないし、ヘミングウェイという扉の向こうに見えるアメリカ人というもの、実際に我々が付き合わなければならないアメリカ人という人種について考えてしまう性向が私にはある。ジョイスを尊敬してジョイスの影響を受けた、という話もまあ興味の湧かない話ではないが、そういう話を聞くのはともかく自分で書きたいとは思わない。

私自身が集団の中に安住できるタイプの人間ではないので、集団と個人という問題については常に考えている、ということもあろう。結局国家論や靖国論、ナショナリズム論、安全保障論などに話がいっても、自分自身に常につきつけられ、自分自身に常につきつけて考えているのは、いつもそのテーマなのだと思う。

以前筒井康隆の『文学部唯野教授』や『フェミニズム殺人事件』を読んで、「文学というのはつまりは観念の遊びだ」、という考えに至ったのだが、遊ぶならもっと他のところで遊んだ方が楽しいよなあという気が私はする。

なんだかはっきりしなくなってきた。文学論は難しい。

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