総選挙の争点:マネーゲーム国家かもの作り国家か/思想遍歴と花咲く年代/履中天皇千六百年祭

Posted at 05/08/25

昨日は多忙。仕事も次々と出てきてずっと夜まで。終了後、仕事場の無線LANを更新したのにあわせて自分のノートのLANカードを設定してもらったが、思わぬハプニングがいくつもあり11時過ぎまでかかる。その後夕食、入浴。1時過ぎに寝たがしばらくして久しぶりに左足がこむら返りを起こし、その措置に追われる。いや参った。

今朝は起床7時過ぎ。やはり6時前後には起きないと時間が足りなくて困る。今回は佐島直子『誰も知らない防衛庁』(角川Oneテーマ21)と佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書)を持ってきているがそれぞれまだ84ページ、34ページしか読み進めていない。ふと気がついたが佐島氏は昭和30年生まれ、佐藤氏は35年生まれである。私は37年だから、同じ30年代生まれの人の著作を全然何も意識せずに読んでいる。

私が意識するのは著者の「感覚」だが、佐島氏のほうがなんとなく理解しやすい。佐藤氏のほうはちょっとずれがある感じがする。同じ年代に生まれ、同じような戦後史観の中で育ってきても、佐島氏は『坂の上の雲』などを読んで登場人物について弟と論じ合うような家族環境で育ってきたことが書かれているけれども、佐藤氏のほうは戦後史観の中でも客観的な視点に立とうという意識を持った人、という感じである時期自分がいた地点に今でも居続けている人、という感じがする。

私は佐藤氏の視点から離れて佐島氏の視点に近づいているということになる。私の世代にも私のようないわば思想的な変遷を経た人というのはもっといるはずなのだが、まだあまり著書などで見かけることは少ない。幼少から40台まで一貫して同じ「城」の中で育ってきた人、というのはそろそろ花が開くころ、という感じなんだなと思う。ここではない、ここでもない、と思いながらいろいろな場所を探しつづけてきた人は、文学者とかならまだしも、一貫した業績を上げるべき学問の世界ではまだ実りをあげられる時期ではないのだろうなと思う。まあそう思って私なども励むしかないなと思う。

西村真悟代議士の日記を読んでいて、印象に残ることが二つ。

一つは両陛下の大阪への行幸啓について。天皇皇后両陛下が22日に履中天皇陵に行幸啓された、という記事はどこかで読んだが、それは履中天皇の千六百年祭のためだったという。履中天皇は第十七代で、仁徳天皇の後継者である。日本書紀によると在位期間はわずかだったが、御陵の大きさは仁徳陵・応神陵に次いで三番目だったように記憶している。千六百年際ということは西暦405年に亡くなられたということか。まあ在位時期については議論があるだろうけれども、西村氏が言うように同じ皇統に属する現君主が千六百年際を執り行うという国は多分他にはないだろう。皇統の存続についてはいろいろな意味で微妙なというかある意味おためごかし的に断絶を図ろうとする勢力も存在することは残念だが、古代のストーリーに思いを馳せてみることも、今後の日本を考える上でより豊潤な未来像を描くことに資すると思う。

もう一つは今度の選挙の位置付け。堀江氏の立候補によってより明確化したのがアメリカのマネーゲーム立国と同じ路線を日本も取ろうとする小泉首相とその御用学者の竹中氏の路線であるという位置付けのしかたである。

90年代の日本が新しい分野の「産業」で遅れを取り、「失われた10年」を招いたという議論があるが、新しい産業というのはさまざまな金融技術により利潤を、製造や販売などのルートを迂回せず直接的に取得する方法と、バイオテクノロジー、情報産業などのことを意味しているのだろう。私にはよくわからないが、バイテクといってもゲノムの解析などのことを考えると、それもまたある種の「情報」を扱う産業だと考えてもよいのかな、と素人考えをしている。それらはつまり、おおむねPCの前に座って何かをやることが業務の大半を占める分野なのかなと想像している。その方面の事業を行っている人からは反論を受けそうだが。

日本が戦後、現在の国際的地位を築いたのは、結局ものつくり、つまり製造業であるという視点があるが、まあそれはかなり正しいといってよいのだろう。つまりは『プロジェクトX』の世界である。日本において製造業が成功した理由についてはいろいろと考察されてきているが、製造業というものが日本の伝統的な国民性に合致していた、という面はあると思う。

まあしかし、たとえばロケットの打ち上げのような巨大なプロジェクトになると最近ミスが目立つのはその職人的な注意性が失われつつあるということが原因というよりは、もともと日本人はそうした巨大で精密なプロジェクトを実行することはそんなに得意ではないということなのではないかという気がする。つまり、細部を精密にすることについてはかなり超絶的な技術を持った人が多いとは思うけれども、その全体の構築を精密性を維持したまま実現することはあまり得意ではないのではないかと。たとえば江戸幕府の組織などを見ても、細部はきちんとしていても全体がなんとなく緩んでいる、と感じることは多い。旧陸軍の大東亜戦争における戦闘などを見ても、細部の訓練は行き届いていても、全体としてみるとなぜ、というような判断ミスが多く見られる。

そうしたことの起こる最大の原因は組織の肥大化にあるわけだが、たとえばアメリカなどでは部分は結構いいかげんででたらめでも全体に見るとかなりよく統御されているという印象を受ける。部分は精密でないのに、全体的に見た精密さでは、大きくなればなるほど精密度はアメリカの方が上だ、という印象を受けるのである。

西村氏が主張するのは、今度の選挙は日本はマネーゲーム国家を目指すべきなのか、それとも「ものつくり国家」を目指すべきなのか、の選択の選挙だ、ということなのだが、「マネーゲーム国家」への道筋は結構見えやすい一方で、「ものつくり国家」への道はそんなに平坦ではない、今までの日本には欠けていた部分をかなり何とかしなければいけないという現状があるように思うし、そういう意味での「ものつくり国家」への道筋はあまり見えてきていないように思う。

まあマネーゲーム国家になってアメリカと同じような「勝ち組」になろう、という主張は軽薄だが理解はそう難しくない(もちろんそんな二番煎じをしてうまくいくんいかいなという視点はあってしかるべき)。しかし、「ものつくり国家」のイメージはなかなかつかみにくい。よく言われるのは、日本にしかない技術、というのがたくさんあって、(たとえば金型製造とか。もうずっと昔に聞いた話だから既に古いかもしれないが)そうした技術がある限り、日本は「世界に必要とされる」国家でありつづけることができる、という主張である。まあこの当たりは私は現場のことをよく知らないのでよくわからないが、まあ理屈ではわかる。しかしまあなんとなく世界の中の中くらい、という印象ではある。それで国民がよければいいのだが、なんとなく人口一億数千万の国家の戦略としたら貧しい気はする。そうでもないのかな。

まあ私としてはやっぱり文化とか伝統とかを大切にし、またそうした意味で世界のある部分を主導できるような国家国民になってほしいと思うけれども、そういう面でも経済の裏づけは必要だということは確かだ。また、そうした文化のあり方と経済のあり方がやはり切り離せないのであれば、軽薄なマネーゲーム経済は軽薄な文化しか生まないだろうから、後者の方がいいのかなとも思う。

どちらにしてもなかなかイメージが十分に湧いてこないところだが、それでもこのくらいは湧いてくるくらいは、今回の選挙は面白い選挙なのだと思う。

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