わしズム最終号/神なき近代人の宗教としての文学

Posted at 05/07/25

昨日。夕刻に出かける。一昨日は地震で出歩けなかったので、いくつか本を見に行くことに。もう7時近くなっていたが、淡路町に出てやなか珈琲店でコロンビアを200g買う。珍しく待ち時間が10分だったので店内でチラシのようなものを読みながら待っていたら、事前に予約しておけば出来上がりの時間に合わせて出かければいいということが判明。それならば手間をかけずにすむ。

豆を受け取ったあと神保町へ。もう多くの書店は店じまいしていたが、三省堂は8時までやっているので、しばらく本を物色。そういえば25日に幻冬舎からの最終号となるわしズムが出るからひょっとして…と思ってみてみたらやはりもう並んでいた。そのほかの本を見てから、と思ってみていると田原総一朗『日本の戦後』下(講談社)が出ていた。田原のものはもうあまり読む気はしないのだが、この本は上巻を買っていたので一応けりをつけておきたいと思い、買う。二階に行ってヘミングウェイの文庫を探す。パリ時代を描いた『移動祝祭日』を読みたかったのだが見つからず、龍口直太郎訳の『キリマンジャロの雪』(角川文庫)を購入。"Big TwoHearted River"などが収められている。

その後日本橋に出て、コレドの地下の東急ストアで夕食の買い物。ピノというチンザノのスパークリングワインを買ってみる。なんだか無性に、ワインでチーズを食べたくなったのだ。カマンベールとブルーチーズもひとかけらずつ買う。もっとも、スパークリングワインよりは普通の白ワインの方が良かったとあとで思ったが。

家に帰って来てわしズムを読み出す。今回の目玉はやはり占守島の戦いだろう。日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に攻め込んだソ連は、8月18日突如北千島北端の占守島に攻撃を仕掛け、すでに武装解除を始めていた日本軍は急遽戦闘態勢を整えてソ連軍を迎え撃った。ソ連軍の撃退に一時的に成功するものの本土からは武装解除の指令が届き、降伏させられた末将兵はシベリア送りにされた。しかし缶詰工場で働いていた400人の若い女性はその間に本土に無事送り返され、樺太や満州で続発した陵辱の悲劇を見ずにすんだのだという。ソ連は結局千島攻略に手間取り、北海道の半分を占領するという野望を達成できなかった。もし占守島の守備隊の戦いがなければ、北海道は今でも北方領土かもしれない、という主張は説得力がある。

もうひとつ、小林よしのりの、台湾独立派との対談と中国知識人との対談が興味深い。台湾独立派が全く中国を信頼していないのに対し、小林は何とか可能性を見出そうとする。そのあたりが「焼きが回った」感が生まれる所以なのだが、おそらく誰もが冷笑するであろう彼の行動をある真摯さが支えていることは確かである。それはアメリカからの相対的自立のためには中国と話をつけるしかないという確信と、その可能性を探ることを第一義に考えている彼の信念から来るものだろう。中国が果たして対話するに値する相手なのか、読めば読むほどあり得るのかいなと思えてくる部分もあるけれども、外交には常にある種の危険さが付きまとうものではあるし、小林が広報手段を確立していることを考えればその危険を最小限にとどめることも可能かもしれないとも思う。海洋アジアのイニシアチブを日本にやるから大陸のイニシアチブは中国によこせ、といった覇権論を平気で口にする中国知識人のセンスはロシアのジリノフスキーと全然変わらない。もちろん似たようなことはアメリカもやっているわけだが、断固とした姿勢の中にも多少の恥じらいがあるところがまだましというか始末が悪いというところでもある。あまりにあけすけに言われると鼻白む。

『日本の戦後』はまだ読みかけだが、佐藤政権と沖縄返還の話が中心。しかしこれは、中央公論新社の『日本の近代』7巻で述べられたことにあまり新しいことが加わっていないような印象である。もちろん細部にはいろいろあるが。まあ田原の語り口が読みなれていると読みやすいということはあることはある。

『キリマンジャロの雪』。まだ少ししか読んでいないが、小説は宗教を失い、死生観を持てない近代人の宗教の代替物といっていいのではないかという昨日の仮説が自分の中では証明されつつあるような印象である。小説が文学という宗教の経典であるとしたら、文芸評論がその解釈書、つまり神学ということになろう。大部の解釈書が生まれ、それが理論付けられていくさまは巨大なスコラ学に似ている。

別の方向から考えると、そういう意味で、表現者は教祖であることを引き受けなければならない、ということになる。(最後まで書いてから思い出したが、坂口安吾が小林秀雄を「教祖の文学」と評したことがあった。しかしもちろん安吾も一人の教祖であろう。)ヘミングウェイもそうだが、たとえば中島みゆきやデーモン小暮、尾崎豊などのことを考えればそのあたりはすぐに納得できるだろう。ヘミングウェイもそうだが、表現者の多くが自殺という自らのせいの決着のつけ方を取るのは、ひとつにはそうした「教祖」であることの重圧、ということもあると思う。ジョン・レノンは殺されたからある種の殉教者となったが、殺されなかったらいつどのように死ぬことになったのかと考えると、あの死にはある種の必然性のようなものも感じてしまう。

神なき近代の人々の求める理想はあまりに多様で、小さな神たちがそこらじゅうに林立せざるを得ないのだろう。彼らの振る舞いを正統化する神学者たちはあまりに少なく、ふと生まれふと消えていく古事記の最初のころの沢山の名前だけ出てくる神様のような古代性さえ感じられる。

しかしもともと、神学者は宗教の存在を社会的に正統化するために存在するわけだから、正統化など求めないカルトの信者たちにはどうでもいいことなのだろう。小さな蛸壺規模のカルトが、あちこちに鳴りを潜めているのが現代という時代なのかもしれない。

ヘミングウェイが巨人という感じがするのは、その教祖としてのカリスマの大きさを意味している。本人がどう意識したかは別として、おそらくは無意識に世界を逃げ回りながら、結果的に自分のカリスマを巨大化させていったのがヘミングウェイの悲劇だったのではないかという気がしなくはない。

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