セールスマンのような本屋と友達のような本屋

Posted at 05/07/03

昨日の夜、パラグアイから来た二人の美女(なぜ?)と懇ろになる、という近来にない(というかそっち系の夢はもともとそんなに見ないのだが)萌え系(というのか?)の夢を見たのだが、どうもその内容はずいぶんさわやかで、どろどろした脂ぎったところが全然なかった。目が覚めてからもその余韻が残っていたのだが、どうもこういう夢はあんまりさわやかなのは健康な男子としてはどうか、とあとで思った。

午後遅くなってから、というより夜になってから丸の内に出かけ、丸善で本を物色する。ここのところ書原に行くようになってから、こういう大型店に出かけるのはぜんぜん気が進まなくなってしまった。一体何が違うのだろう、と思いながら書棚の間を巡る。どうにも味気ないのである。

こういうのが売れてますよ、こういうのが流行ってますよ、と書棚が勧誘してくるような感じなのである。同じ本を数十冊並べる、というあの強引で工夫のない本の展示はいったいいつ始まったのだろう。書棚を見ていると、悪質リフォームの勧誘のようないやな感じがだんだんしてくるのである。目に付くところにある本は売らんかなのコピーばかりが並んだ本か、でなければどこかの書店で見たことのある本ばかりが並んでいる。そういうものを見ていると、だんだん辟易してくるのである。

書原の書籍の配列にはそういう感じがない。そういうしつこいセールスマンという感じではなく、書棚や平積みを見ていてもなんだか実に意外性があるのである。え、こんな本があるの?とつい手にとって見たくなるような本が平積みになっていたり、目に付くところにある。ああ、この本前に買うかどうか迷ってやめたんだよな、でもこの書棚にあるととても魅力的に見えてきちゃうな、という感じである。例えていうならば、とても話のあうものを良く知っていて本をよく読んでいる友達から、こんな本があるよ、とかこの本面白いよ、と勧められているような感じなのだ。この本しらなかったでしょう?面白いよ、とちょっといけずな感じで教えられているような気がしてちょっと悔しかったりする。そんな感じである。

そんなことをつらつら考えていると、ああ、本屋というのは本の配列そのものが表現であり技術でありアートなんだな、ということが理解できる。それは表現であるから、当然その人、その店の好みや主張が現れる。それをいいと思うかどうかは客の好みである。丸善は誰でも目当ての本が探し出せるような図書館のような本屋なのだが、「何か面白いもの」を探している客に「これなんかどう?」と得意そうに教える友達という感じがない。これが売れ線でございます、これはみんなもってますよ、という本ばかりでは探そうという気持ちが萎えてくる。

まあしかし、日曜の夜に9時まであいているということ自体が偉大なのだ。散々物色して、細谷博『小林秀雄 人と文学』(勉誠出版、2005)を買う。勇気とか美とか正義とか考え出すと、やはりこのあたりに来るのかなと思った。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday