自分にとっての作家

Posted at 21/09/10

まあ個人的な内面状態を書くのもあまりかっこよくない気はするのだけど。

気分が上がったり下がったりするのは元々のことだけど、できればそういうものにあまり左右されたくないなとは思う。ただ、そういうのを無視するとそういうのはこじれるので、ある程度フォローする必要はある。落ち込んだときには落ち込んだときにしか書けない文章みたいなのもあるし、上がった状態の時にはそういう時だからこそ書けるみたいなこともある。

おそらく作家というものは、そういう自分自身の強さや弱さ、内面の変動、そうだからこそ見えること、そしてそういうものが見えなくなってしまった悲しみ、そういうもの全てを表現にぶつけていくことができる人なんだろうなと思う。

というか、そういうものが「自分にとっての作家」なのかもしれない。

作家という人たちがよく書けない書けないと言っていることが多けど、書けないことも書くことの一部なんだろうなと思う。まあだから、作家というものは自分にとってのある種のスーパーマンみたいなものなのかもしれない。

最近は書かなくなったけど、10年ほど前は小説とか物語とかを書いて、ネットなどに上げたり公募に応募してみたりしたこともある。今読んでも自分では面白いと思うのだが、なんとなく古くなってきたりした感じもあるし、一方ではこの辺の書き方は甘いなと思うところも当然出てきている。

恐らくは今書いている文章もまた、今は「こういうふうにしか書けない」と思って書いているのだが、こんなふうに書いたほうがもっといいんじゃないか、みたいなことはまた後になったら感じるんだろうなと思う。

マンガの感想や本を読んでの感想など、書きたいことはない訳ではないのだけど、しばらくは自分の内面というか自分自身というものが一番自分にとっての問題であり続ける感じがするので、しばらくはこんな感じの文章を書くことになるのではないかという気がする。

自分はおそらく、自分に引きつけてでないと、自分が本当に書く意味があると思えるような文章を書くことはできないんだろうなと思う。少し遠いなと思うところにあるものについて、感想を書こうとしても、それは自分が見えていないことについて書くことになるのではないかという感じがする。

しかしまあ、昨日小林秀雄を読んでいて思ったのだけど、見えていると思ってそういう感想を書いたりするのも、なんといえばいいかある種驕った行為であるような気もするのだよな。どんな作品でもそうだけど、当然ながら見えていないところはいくらでもある。見えていないことについては書けないし、それが見えないことについての分の弁え方というか、そういうものがない文章は読んでいて辛い。

まあ私もいい気になってそういう文章をたくさん書いているとは思うのだけど、自分にとって自分で見えていると感じられる距離のものをちゃんと見て書くべきだなと思うし、そういう意味では自分はすごく近視眼であって、少し離れてしまうとすごく輪郭がぼやけるんだなと思う。

理論とか理屈というものは、その視力を上げるためのメガネみたいな部分があるが、実際のところ、眼鏡を通してみたものよりたとえ見えなくても自分の目で見たほうが感じられるものというものはあるから、理論とか理念とか通念とか常識とかそういうものはなるべく外してみたほうがいいと思う。

本当に小林秀雄こそ、そうやって読まないと読めない文章なんだよなと改めて思ったりする。

美しい花がある、花の美しさというものはない。

花の美しさについて検討するのもいいけれども、美しい花をじっくりとみて、愛でて、それに酔ってみるのもまたいいことではある。

作家というものもまた、そういう普通の人の目には入りにくいものをまたみていくものだとも思うし、自分について書く、自分の内面や希望や絶望やそのほかまだ名付けられていないものまで、見るだけでなくみている自分というものも見る、自分を見る自分をまた見る、くらいのことができてないといけないんだろうなとも思ったりする。


人に響く文章を書きたい。

Posted at 21/09/09

しばらくの間、自分の中がしんどくなって、ブログもあまり書けず、仕事にも色々と支障がある感じになっていたのだが、だいぶ落ち着いてきた。

文章を書くのも、なんのために書くのかを見失っていたところがあるなと思う。こういうことはしばらく書かない時期がないと客観的に見られないものだなと思う。

結局、私が文章を書くのは、自分自身を表現することなんだなと思う。自分自身というのは生身の自分自身というのとはちょっと違うのだが、自分がこう思うということ、こう感じるということ、これはおかしいと感じるということ、これが好きだということ、こういうことをしてこう感じたということ、こういう本を読んでこう思ったということ、自分というものの輪郭のようなものを表現していくということなんだろうと思う。

こういうことを考えている人間がいる。こういうことを思っている人間がいる。そういうことを表現することがまず第一に大事なんだろうと思う。

その人がいなくなったら跡形もなく消えてしまう何か、というものはたくさんあるわけだけど、文章というものは残る。もうすでに書いた人がこの世からいなくなってしまったけれど、ネット上に漂っている文章というのはすでに無数にあるだろう。そしてそういう文章に励まされたり、発見があったり、もっと調べたくなったりすることも多いに違いないと思う。

ネットの文章というのはある意味ヴァーチャルな存在で、あると思っていたのにいつの間にか消えたていたりする。だから、紙の本にして自分の思ったことを残したいという気持ちもある。しかし紙の本は売れなければ、あるいは売り終わられれば流通するチャンスは失われる。運よく図書館に収納され、それが読まれている間は誰かに伝えることもできる。

言葉としては、そういうネットを漂っている文章よりも、書籍になってどこかに埋もれたり、あるいは図書館でほそぼそと読まれている文章の方が価値のある文章も多いだろうと思う。ただ、そういうものよりも、いつともしれない時間にネットの海に投げ込まれたなんらかの文章の方が、何かの偶然で誰かの目に留まることがあり得るというのは、不思議な話だなと思う。

文章を書籍として残したいと思う一方で、ネットでものを書くことの魅力も見捨てがたいのは、そういうところだろうと思う。

文章は自分を表現するもの、というと「自分という存在を認識させたい」というふうに考えられるしもちろんそういうこともあるのだけど、自分というものが認められなくても「こういうことを考えた人がいる、誰が言ったのかよくわからないけど」ということで伝わればそれも嬉しい、ということもある。文章やテキストの無署名性というのはネット掲示板が有力なメディアになったときにすでに言われていたけれども、そういう形で共有されていくものも確かにあるしそれもまた現代の文化現象として面白いとは思うのだけど、断片的な自分の文章を誰かが読んでいくうちに、その人の中にホログラムのようにヴァーチャルな「自分」というものが立ち上がっていく感じというのも割と面白いと思う。

だからそこで表現される自分というのは、先に書いたように「生身の自分」ではない。最近はなかなか機会がなくなったが、以前は時々いわゆる「オフ会」というものに参加して、色々な人の話を聞いたりしたこともあったのだが、面白いのは会ったときに「想像通りの人だった!」と言われることもあるし、「女の人だと思っていた」と言われることがあったり、「想像がつかないでいたけどこういう人だったのか納得w」みたいに言われることもあって、それぞれの人の中に立ち上がった自分というホログラムの多様性が面白かったりすることもあるわけだ。

しかし実際のところ、自分が「よく知っている」と思う人に「意外な一面」があるというようなことは、普通に生活していてもよくあることだ。その人の文章の中でも自分が面白いと思うことしか本当には読んでいないから、そうでない部分のその人、というのは全くの異邦人に感じたりすることもなくはない。

人を理解するということもそういう意味で曖昧さと多義性を避けられないものであるから、その人の中の幻のようなホログラムがその人に何か響くものがあればそれで十分面白いとも言える。

政治のことを書いてもマンガのことを書いてもこういうなんとなく思っていることを書いても響き方は読む人次第なので、できればどの文章も色々な人に読まれて響いていくといいなと思うのだが、まあそういうことを考えながら書いていきたいと思っている。

五大にみな響きあり。空海でした。

ご無沙汰しています

Posted at 21/09/08

しばらくブログを書けないでいた。8月19日が最後だから3週間ということだろうか。疲れと本質的な問いのようなものについて考えるようになってしまって、「書く」という表現行為から心情的に一歩引いてしまう感じになっていた。

コロナは第5波はだいぶ減少局面になってきたが、だからと言って以前のように1日の感染者数が東京都で100人以下というレベルまで下がるにはかなりかかりそうな感じはある。警戒を緩められるレベルにはまだなっていないだろう。

政治の方も、菅首相が退陣を表明したことで政局が大きく動いている。それを受けて株式市場は新政権の経済対策への期待で活況を呈しているが、これもどうなるのかはわからない。ただ、ある程度の積極財政が期待されていることは確かだろう。

書かないでいた分、他のことを進展させたかったのだが、そういうわけでもない。紙の日記はつける日もあるので何も書いてないわけでもないのだが、ブログに書けないということはテーマを絞りきれないという意味でもある。

もともとウェブ日記の時代から、半分は日常雑記で書いてきたのだが、変化の少ない日常の日常雑記というのは割と大変だなとコロナで諏訪に篭るようになってから感じている。

ただ、とりあえずは足元のことを大事にした方がいいという感じになっているので、そうしたことも書いていくかもしれない。

安定しない天気が続いている。今日は松本に出かける。

皆様も良い1日を。

歴史の中の循環的なもの:例えばタリバンの復活や疫病の流行

Posted at 21/08/19

生活をしている上で、循環的なものと片道的なものがあることを考える。

循環的なものというのは「〇〇家の四季」みたいな感じの話で、農事暦みたいなものというか、「ベリー公のいとも豪華な時祷書」というか、春になったらこうして、夏になったらこうして、秋になったら収穫、冬は準備の期間、みたいな感じの一年の循環、また朝起きてご飯を食べて仕事をしてご飯を食べてお風呂に入って寝る、みたいな1日の循環がある。

また、月初の仕事はこれ、給料日はいつ、月末に締めは何日まで、みたいな月毎の仕事のサイクル、火曜日から働き始めて土曜日まで仕事、日曜と月曜は休み、みたいな1週間の仕事のサイクルもあるが、それは多分に人為的なものだ。一日のサイクルと一年のサイクルは自然が避けようもなく繰り返し、人間の身体もそれに合わせて活動したり休息したりするようにできているが、1日と1年の間の差があまりに大きいので、というのは地球の自転速度と公転速度の関係がたまたまそうなっているというに過ぎないのだが、月の公転速度を利用した1ヶ月というサイクルや、聖書の記述という宗教的なサイクルを利用して、人間の活動の区切り方をより使いやすくしているということだ。

日本に1週間という制度が導入されたのは明治以降だが、それまでは五十日といって毎月五と十のつく日に休みにする、みたいな考え方もあった。現在でも会計や集金の締めをそのような日とする風習は残っているので、その日は銀行や道路が混雑したりするという現象も起こっている。それらは全て、人為的な取り決めの問題である。

片道的なものというのは、人が生まれ、育まれ、成長し、大人として活動し、家庭を構え、子供を育て、年老い、死ぬという個人にとっての単線的・片道的な時間の流れである。ただ、これも人間の種として考えてみれば、生から死までが一つのサイクルであり、それが何世代も、何百万年間も繰り返されてきた、とみることもできる。個体として考えれば片道・単線だが、種として考えればこれも一つの循環だと言えるかもしれない。

文明というものも、現代ではどちらかというと単線的なものと考えられていて、人間はどこまでも進歩していくというような感じに思われていると思うが、前近代ではそうではなく、文明や国家も勃興・繁栄・衰退・滅亡のサイクルを繰り返すものと考えられていた時期も長い。実際のところ、文明によってそのタイプの違いはあるが、栄枯盛衰を経験しなかった文明・民族はないだろう。

ただ、現代文明は記録の積み重ねにより過去になかったことがプラスされて知識は増える一方であるという観念に支配されている。そういう意味では、「記録や公文書等は文明にとって重要である」ということが比較的徹底されている文明だと言えるだろう。

そのようにして試行錯誤してきた歴史を現代文明は持っていて、だから滅びることはない、という感覚が広く共有されており、文明は循環はせず単線的に進歩していくと考えられているのだけど、だから逆にいうと歴史のなかの「循環的なもの」が現れるとそれに違和感を感じたり恐怖を覚えたりする感覚があるのだなと思う。

それは例えば「タリバン」の存在だろう。90年代にアフガニスタンを支配していたタリバンは、「テロとの戦い=文明による野蛮の掃討」により過去のものとなったと思われていた。それが20年の時を経て復活し、再びアフガニスタンを支配下に置いた。過去の亡霊、テロリズムの悪夢、原理主義の迷妄などさまざまな過去の亡霊が復活したように感じ、そうした歴史の循環への呪いがテキスト的にも溢れている。

こうした歴史の循環的なものを人が恐れるのは、つまりは「人は結局は進歩しないのではないか」という思いを抱かせ、単線的な人類の文明の進化に対して疑念を抱かせるところにその恐れの根源があるのだろう。

私自身は、人類はいずれ滅びるし文明もいずれは滅びると思うし、人間はそう簡単には「進歩」などしないし、未来を考えるだけでなく常に過去との対話が重要である、と考える方なので、「タリバンの復活」も一つのイベントにすぎず、人々がそれを恐れていること自体が現代文明の進歩信仰の現れだなと思うのだが、タリバン復活それ自体は循環的であってもこの20年の世界情勢の変化は単純な世界全体の繰り返しでないことは確かだと言えるだろう。

ただ、環境主義の「持続可能な成長」というイデオロギーやフェミニズムやポリティカルコレクトネス重視派の「人権は拡大していくべき」というイデオロギーもつまりは進歩主義思想の一つの現れであって、こうした歴史の循環的な部分の表れに対しては危惧を抱くのだろう。

また現代の新型コロナの流行も、過去に何度も繰り返されてきた疫病の流行という循環的な現象であり、欧米で「mRNAワクチン」という画期的な技術が開発されて接種が進み、ひとまずは流行を低減させられたことを殊更「人類の進歩の勝利」のように祝福するのも、そうした「歴史の循環からの解放」、「人間の業からの解脱」みたいな捉え方が背後にあるからなのだろうと思う。

保守主義の思想というのはつまりはそうした「進歩への夢」みたいなものを「ある種の妄想」であると切り捨てるものでもあるから、進歩派にとっては癪に障るものであろうし、「進歩への敵」のように認識されやすいものだろうと思う。

しかし、人類の時間は否定すべくもなく循環的なものに支配されている側面はあるわけで、それを見ようとしないこともまたある種の迷妄であると考えるのがより客観的な見方ではないかというふうには思う。

文明の大収縮は起こり得る。しかし、それを例えば「少子高齢化」の問題のように矮小化し、またそれを利用して緊縮政策を行なって格差が拡大する社会を作っていくという考え方は現代取るべき方策ではない。現代に生きる人々がより人間らしく生きられるようにすることが政府の役割なのであり、そうした観点から政策を実行していくべきだと思う。文明の大収縮が予想されるからといって、起こる前から身を屈めておく必要はないのであって、そうしたカタストロフの中でもいかにすれば人は人間的に生きられるかどうかを追求していかなければならないのだと思う。


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