SとかMとか(Lとかも)/生きた芸術/渇き
Posted at 10/09/03
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洋服のサイズについて、いつも迷う。洋服と言っても私はそんなに買うわけでもない。気合が入っている時、というかお金があるときはブルックスブラザーズに出かけてシャツやズボンを買うのだが、あまり気合を入れないときはユニクロやしまむらで買うことも多い。ズボンはいずれにしても裾を切ってもらわなければ仕方がないからいいのだが、シャツの方はどうも自分のサイズが覚えられず、いつも首回りと袖丈で首をひねる。一度ちゃんと測ってサイズを携帯にでもメモしておけばいいのだけど。
SとかMとかで買うことも多いのだが、これもまた同じSでも店によって大きさが違うので、前にSを買ったのがユニクロだったかブルックスブラザーズだったか思いだせなくなって、いざ店に行ってからエイと思ってSのを買ってみたら小さかった、ということもよくある。下着がまたアレで、どうも私は腰回りや下肢上部が発達しているらしく(中学生のころ短距離体型だと言われたことがあった)Mでもきついことが多い。これがまた店によって大きさが違う。しまむらのは小さめだからLにしなければということは胆に銘じたのだが、他の店だと分からなくなることがよくある。
若いころはけっこう「服に体を合わせる」という日本軍の軍靴みたいなことをしても存外平気だったのだが、最近では少しきつくなると気分が悪くなって着替えたくなってしまう。女性の修正下着など、よくあんなものが着られるなあと思う。
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昨日はあまりいろいろ読んだりはできなかった。アーノンクールとレベッカ・ブラウンを少しずつ読む。アーノンクール『古楽とは何か』は第1章3節、音楽の理解と音楽教育。今の聴衆は「初めて聞く音楽」を聞かない、という話。これは演劇でもある程度あることだけど、歌舞伎にしてもオペラにしても基本的には観客皆が知っていることを何度も繰り返してみたり演奏したりしているという事態に慣れ過ぎていて、みな細部への関心にとらわれてしまっているが、本来音楽は初演でどんな言語が観客に向けて語られるかが大事なはずだ、ということを言っている。
これは確かに分かる。「生きた芸術」ならば、新しい芝居、新しい映画、は作者がどんなメッセージを伝えてくるのか見るまで誰にもわからない。小説でもそうだ。しかし、クラシック音楽はそうではない。その事態がおかしいことに疑問を持たない現在の状態を変えなければならない、という理解と演奏者と聴衆の教育を行わなければならないということを言っている。
クラシック音楽というのはそういうものだとどちらかと言うと私は「教育」されてきた感じがするから、なるほどそういう方向性というものはあるんだなと思う。私など知らない曲の方が多いから演奏会へ行っても知らない曲が演奏されることの方が多く、その都度初演のつもりで聴いているが、しかし本当の初演と違ってそこには演奏者の工夫が色々込められてしまっているので返って聴きにくかったりすることはある。ショパンの演奏などでも、最近の演奏者の技巧をこらしたものより、ルービンシュタインなどのオーソドックスな演奏の方が私は基本的に好きだ。出来れば最初にルービンシュタインで聴きたかったな、と思う曲はある。彼のいうことはそういうことに近いのかもしれない。しかし実際にどうするかということになると、もう少し読んでみないと分からないというのが正直なところ。
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レベッカ・ブラウン『若かった日々』の「自分の領域」を読了。全体の169/222ページ。父と母との思い出の話なのだが、父の話が多い。父と母の「領域」のギャップみたいなものがどうしようもなく存在し、離婚に至った、そのわけを娘として理解して行くための、そんな短編であるような気がする。父は子どもたちにはボートに乗せるためにいろいろなことや心構えを仕込むが、母にはそれを強要しない。そのために起こった事故、というのが父と母の関係を象徴しているように思う。レベッカの小説も、こんな家族関係の中から生まれて来たある種の「渇き」のようなものが反映されているのかもしれないと思った。
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日は確実に短くなり、太陽は確実に低くなってきているのにいつまでも暑い。視覚と温感のギャップで体の疲労が大きくなってきているような気がする。
スランプ
Posted at 10/09/02
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昨日はずっと忙しかった。それを一つ一つ片付けているうちにずいぶん遅くなった。ただ不思議と疲れはない。寝たのは1時ごろになったいたが、今朝は6時前に目が覚めた。今朝はモーニングページを書いてからモーニングを買いにファミマまで行って、簡単にモーニングを読んでから朝食。『ゲゲゲの女房』を見て感動した。
急ブレーキが危ない、というエピソード。私も自分の方向感覚を見失ったときは、仕事も大学院も結婚生活も同時に終わりにした時だった。今ではその感覚はよくわかる。当時はあまりピンとこなかったけど。ただ、なだらかに終わりにするということは物理的にはできなかったし、どんなに工夫してもたぶん無理だっただろう。だから問題は、いかにして立ち直るかということにある。しばらくゆっくりして、と思っていたけどどれだけゆっくりしても立ち直れないということはあるのだ。ゆっくりしようと思って山に登ったら足の骨を折ったりして、何も光明が見えなかった。
今日の場面はどの場面もよかったけど、一番良かったのは乾との会話。スランプの話になって、乾に「自分にも何が足りないのかわかりません。でも、本物は必ず生き残ります。水木さんは鬼太郎のように不死身です。今スランプならば、苦しんでください。その先に必ず突破口は開けます。」(記憶なので不確か)と言われてた場面だ。そして、しげるは昔の自分のマンガを片っ端から読んで、「俺は何を見失っているんだ」と自問自答しながら答えを探す。その気持ちは本当に痛いほどわかる、と思った。というより、自分の経験が痛いほどそこに重なった。
何を見失っているのか、それが分かれば後は何とかなる、というところはある。何を見失っているのか分からないからもがくのだ。答えが出るまでどれくらいかかるか分からない。休んでいても、休まらない。探しても見つからない。これかと思ってそれにすがってみても、違ったりする。そんなことの繰り返しが延々と続く。
結局は自分への信頼感だろう。自分が信じられなくなったら何をしても自信がなくなる。傷つきやすくなるしくじけやすくなる。それがまた、自分への信頼感への道を閉ざす。自分への信頼を回復して初めて、自分の足りないところがきちんと見えてくる。そうなるまで、それを直すことなどできない。水位が高い時に、あるいは暴風雨が荒れ狂っている時に堤防を直すことなどできないのだ。
モーニングページに簡単に書いたプロットをもとに短編を書く。今までとかなりタイプの違う、とは言っても人から見たらあまり違うと思わないかもしれないけど自分の中ではけっこう違う、という短編を一本上げた。一度校正をしながら音読してみる。自分としては面白いと思う。まあ結構、面白いと思う基準が低いから私は自分の作品に関しては。誰かに読んでもらう機会を作って感想を聞いてみたいと思う。というか、これはけっこう朗読用の作品かもしれない。
プロの仕事/自分自身に対する繰り言
Posted at 10/09/01
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父の遺稿集を出すということで母が原稿をまとめ、父と母の高校時代からの知り合いの印刷屋さんに来てもらい、具体的な話をした。母といくら話していてもどういう本にするのか堂々巡りで全然決まらないのだが、今朝は話していてほとんどすぐに考え方が決まり、話があっという間に進展した。プロと言うのはすごいと思う。こちらのもやもやした考えをあっという間に形にしてくれる。はっきり言葉にできずに考えていたことをすっと提示してくれるので、それならこうしたらどうか、というアイディアがこちらからもすぐ出るのだ。不慣れな仕事は、こちらがプロになれるわけではないけど、プロと話をしながら進めるということはインパクトがある。別の話だが、会計のことも身内でいくら話しても堂々巡りだったことが実務をやっている人を交えて話したらあっという間にすべて腑に落ちたということがあった。定型の決まっている仕事に関しては、プロの仕事の切れ味はすごい、と改めて思った。逆に言えば、素人がいくら理屈で考えても分からないことが実務の仕事にはあるということだ。大きな組織でやっているときは分からないことはすべて専門の人に任せて終わり、で済んでいたが、家内経営みたいな仕事のやり方だと自分たちでできそうなことはなるべく自分たちで済ませる習慣になるのであまりそういう仕事に触れる機会が多くなくなるのだけど、久々に専門家の力というものを感じた。そういうものをいかに生かしていくかということは、生きる上でもその仕事を充実させる上でも大きな要素だと思った。
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アーノンクール『古楽とは何か』に書かれていることについていろいろ考える。アーノンクールの主張のひとつは、19世紀ロマン主義以来、というか「フランス革命以来」という言い方をしているが、音楽は「感性の領域」のもの、という考え方が主流になったということで、逆に言えば18世紀以前は音楽(そのほかの芸術もそうだろう)は「知性の領域」のものであったということになる。たとえて言えば――以下は私の勝手な解釈だが――音楽は「感性の牢獄」とでもいうべきところに幽閉されてしまって、美しく装飾的であることのみを強要されることになった、ということになろう。知性と感性とをどちらが人間性の本体により近いものか、という日本的な考え方では感性の方が近いということになりそうだがヨーロッパ的な考え方では知性の方がより近いということになる、という感触があった。これは多分文明的な特色なのだと思うが、日本では知に対してより感性に対して、ヨーロッパでは感性に対してより知に対して、より敬意が払われているように思う。
以下は自分自身に対する繰り言。まあ詳細は省くが、私は知の方が勝るタイプの人間だと思うけど、90年代後半以後、「知」というものが信じられなくなってしまったところがあって、一方的に感性に憧れるようなところがあったのだなあと昨日考えていて思ったのだった。自分が90年代に何かを損なった感じがしていて、それは感性的な部分だと思っていたのだけど、というか派生的に感性的な部分が損なわれたというところもあると思うけれども、より知に対して、知への信頼に対して、自分自身の知に対する真っ当な評価というものに対して、の認識がかなり崩壊してしまっていたのだなと思う。知的な方法が顧みられない実務の現場と、とことんまで深く広くまた専門的な能力が限界まで要求される知の現場、そして日本的な知の体系、というか自分がそれまで培ってきた知の体系がたとえばアメリカ的な知の体系とは適合しないという現実、何というか三つの力のベクトルが破壊的に働いて何かが壊れたということだったのかなという感じがする。
積み上げてきた知の体系と新しい文化にぶつかったときにその体系自体を問い直さなければならないということは明治の初めとかによく起こったことで、正岡子規にしても夏目漱石にしてもその中から「日本的な近代」というものを血のにじむような努力をしつつ生み出してきたわけだ。わたしも、そこで何かを選択していたとしたら、というか明らかに選択したのだが、それはアメリカ的な体系に乗り換えることはしない、ということだった。ただその体系に対して批判はあるし、その体系が更新されなくなり、消滅してしまうという恐怖は耐えなければならないものとして残る、ということはある。学問にも流行り廃りがあるし、「ガラパゴス化」と言われるように、日本的な価値観とある種の世界標準が対立した時に日本的な価値観の産物が批判や嘲笑にさらされることにも耐えなければならない。しかし従来の価値観を墨守するだけでは新しい時代には存在することすら許されないということになりかねない。子規が古今集や紀貫之を否定したことによって古典研究に酷い足枷がかけられてしまったが、伝統墨守の古今集至上主義では新時代の短詩体として短歌や俳句が生き残っていくことはできないという決死の思いが子規にはあった。古今集否定は劇薬ではあったが、それによって短詩体が生き残ったという面は確かにある。
広く深い知の現場に関わっていくことの能力的限界というものを感じたこともかなりダメージはあった。それも考えてみたら、言語能力の限界ということもあるが外国世界における外国世界での発想や思考の枠組みたいなものを生理的に受け入れにくいということもあったなあと今にしては思う。そこが突き抜けられなかったのが自分の限界だったかなと思うが、今外国の小説や学問とは違う領域のものを読んでいると、あれはこういうことだったのかなと思い当たるところがあったりするわけで、つまりは外国の考え方との付き合いが狭かったということだったんだなと思う。映画などは散々見たが、趣味が偏っていたし。
知的なものが顧みられない世界に対する恐怖心のようなものはいまだにある。これはしかし、子どものころからのことなので根が深い。中学の頃、「英語」という苦手科目が出来て安心した、ということがあったが、知よりも感性に走ったのも、そういう逃避的な側面があったのかもしれないなと思う。「知は力なり」と言うが、そこまで知のことを信用できていない。知に頼り過ぎると自滅する、ということが本能的な教訓としてどこかに刻みつけられている。
まあネガティブなことを色々書いてきたのだけど、また人に読んでもらうようなものでもないのかもしれないが、まあ自分としては自分の記録としてこういうことを考えたということを残しておきたい。ブログ以外のこういう文章はどうしても散逸してしまう。
まあとにかく、今気持ちの持ち方として大事なことは、自分の「知」というものをもう一度信じてみる、ということなのだと思う。
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