マイナス7.5度

Posted at 19/01/23

朝からいろいろやっていてようやくMacBookの前に座ることができたのだが、時間がないのでさっさとブログを書いて出かけなければならない。

今の気温はマイナス6度で、最低気温はマイナス7.5度くらいだったのだが、このくらいになると電子機器は調子悪いし、当然ながら部屋の中も暖房を入れてないとどうにもならないのに、つけようとしたら灯油が切れていてポリタンクにも入っていないという事態で、ポリタンクに灯油を入れるところから朝食をとりながら並行していろいろやっていたので、朝の支度と今日の予定と考えながらブログも書いているという感じになっている。

それでもとにかくブログを書こうというところまで、精神的な余裕と身体的な動きがついてくるようになったかなとは思うのだけど。
「約束のネバーランド」をkindleで読んでたらどんどん読んでしまったのでちょっと寝るのが遅くなってしまったというのもあり。ジャンプ本誌ではずっと読んでいたけど単行本は買ってなかったのだが、やはり面白いし良くできているし、編集部やアニメ製作会社もこの作品には力が入っているなというのをいろいろ感じている。

世界は理解しようとするはしから変わっていく

Posted at 19/01/22

自分が関心があること、自分がいいと思うことなど、そのことについて追いかけようと思うのだが、自分が問題と思うことについてもやはり追いかけるわけだし、それ以前に毎日の生活や体調、まわりの人のことの方に気を取られてなかなかそこまで追いつけない感じだ。

自分が何が好きか、何に関心があるのか、何を追いかけたいのか、というのがはっきりしているのが自分がしっかりあるということで、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、何に関心があるのかを見失ってしまう状態が「自分を見失った状態」というのだろうと思う。

自分が好きなこと、関心があることというのは消長があるから、それが山を越えてきたときに自分を見つめ直す時があるわけで、その時に「自分はなぜこのことに関心があるのか、こんなにこだわっているのか」というようなことを考えたり、「こんなことを考えても、あるいは追いかけても意味がないのではないか」というネガティブな思いに襲われたりするが、それはもっと大きなところ、深いところでの自分というものがはっきりしていない、大きく言えばアイデンティティがしっかりしていない、ということになるのだろうなと思う。

そのあたりのことについてよく考える(と言ってもようやく少し考える余裕ができないとむりなのだが)のだけど、たとえば身体と妄想と仕事、の三次元に分けて考えたりして見て、それはそれで何かわかることもありそうなのだが、その妄想の部分をどう追いかけ、どう切り分けたらいいのかがあまりはっきりしていなかったりした。

自分が一番根源的に思っているのは、「この世界を知りたい」ということであって、そのための手段をいろいろ探してきた感じがあるのだけど、それは例えば本を読んだり、いろいろなことを経験したりということもあり、大学や大学院に行ったりということもあった。学問という方法論も一つ世界を知るための方法だけど、やはりそれだけでは分からないなということもあって、ただぼーっと世界を観察したりするときもあった。

学問というのもいろいろ幅広いものがあるわけだから一つの方法論に拘泥しないで他の学問へ行くという手もあったし、そういうさまざまな学問の方法論を手につけて語っている人を見るとなるほどそういうやり方もあるよなあと思ったりもするが、学問には学問の限界がある、みたいなことはどうも子供のうちにある種の思想として叩き込まれてしまった部分があって、なかなか学問に全面的な信頼をおけないところが、一つ自分の弱点だなという気はする。

学問以外の手段として、アートというもの、特に演劇というものに触れて関わってきた経験というのも自分にとっては大きな財産だなとは思うのだが、いまそれを全面的にプッシュしているわけではないしそこからの世界を本当に見たいのかもわからない。

そうだな、「世界を知りたい」と思うのだけど、結局は人間は「自分という手段」を使って、「自分というナイフの切り口」によってしか世界を見ることはできない、ということもまたあるのだよなと思う。

アートという手段も使えるとよいのだけど、やはり知的な側面からの切り口が何か自分にあってるような気もするし、また否応なく取り組まなければならない生きるための仕事の側面からも世界は否応なく見えてくるわけで、その辺をどう統合していくのかみたいなところもある。

私が歴史を専攻したのは過去にさかのぼってすべてを理解したい、みたいな感じがあったからで、でも一人の人間が知ろうとするには世界は広すぎるし長すぎるしまたそういう物理的限界に加えて自分自身の性格的な限界みたいなのもあるし、なかなか難しいなと思いながら何十年も生きてきた。

そしてその間に世界そのものがどんどん変わってしまって、80年代までは冷戦構造を知ればだいたい世界を分かった気になっていたのが90年代、ゼロ年代と進むにつれ、過去の遺物のような気がしていた宗教や伝統みたいなものがより重要な価値で立ち上がってきて、またそれは世界だけでなく日本でもそうだし、何より自分自身の中でリベラルな価値観への疑問みたいなものが立ち上がってきて、そうなると今まで世界を知ろうとしてきて積み上げてきたものもすべて点検し直さないといけなくなるし、全然重視してこなかったさまざまな宗教的現象みたいなものを再解釈しなければならなくなるし、運動体もまたその位置づけをし直す必要が出てきて、またそういう伝統世界だけではなくテクノロジーの進歩によって世界の未来像みたいなものもまた見直す必要が出てきて、なるほど今書いていて分かってきたけれども、自分自身が一体どこに足場を持って世界を見ればいいのか、それ自体が分からなくなってきているのだなと思った。

とりあえず自分の今いる場所を確認する、とりあえず自分が見えているまわりの地図を作り、その中で自分がいる場所を確認する、というくらいしか先ずできることはないのだろうなと改めて思った。

先が見えない時代とよく言うけれども、今自分がいる場所すらわからない時代になっているのだから、先のことなど分かるはずがないなあと思う。というか逆に言えば今いる場所が分かってきたら少しは先のことも見えるかもしれないという気はしなくもない。というかそういう希望は持ちたいと言えばいいか。
昨日買った金子夏樹「リベラルを潰せ」(新潮新書)を読んでいて思ったのだけど、90年代冷戦崩壊後のアメリカやロシアで「世界家族会議」というものがつくられ急速に力を伸ばしているというのは日本で言えば「日本会議」みたいな存在だなと思ったのだけど、少なくとも日本では一般的にはこの「世界家族会議」の存在は全然知られていないわけで、その知らないものが世界で大きな影響力を持っているということは、やはり少し怖いことではある。知らないということそのものが世界を正確に理解するのに大きな落ちになるわけで、そういうものがあるということ自体にある種の危機感を覚えるのだが、まあそんなものは多分他にもいくらでもあるのだろう。

昔は世界を知るためには歴史を知らなければと思っていたけれども、最近では歴史以前にまず今の世界そのものを知らなければいけないし、その背景を知るためにその歴史を掘り下げるという順番でしか、世界を知ることはできないのではないかと思うようになっている。残念ながら、ゆっくり落ち着いて世界の事象のすべての歴史を追いかけることはできないわけで、とりあえずは目についたものからつぶしていくと言えばいいか、知っていくしかないという、学問的というよりはジャーナリスティックな視点でしか先ずは世界を知るという目標というか、そういうものは実現できない気がしてきている。

過去、現在、未来を知るのに、以前は過去から時系列的に知っていけばよいと思っていたのだけど、今ではそんな余裕はないなという気がする。現在を知り、少し過去を知り、多少は未来を展望する、そのくらいの感じだろうか。もっと時間があればいいとは思いながら、時間をかけているうちに世界は変わっていってしまう。

とりあえず今の問題意識を整理してみたが、それでどうなるんだというとよくわからないが、もう一度この文章を読み直してみよう。
あと昨日立ち読みで読んだ「マンガ家になる! ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録」の江口寿史さんのところが、自分の知らないマンガの歴史、ダイナミズムみたいなものが書かれていて、また買って読んでみたいと思った、ということも書いておこうと思う。

朝四時半の電話

Posted at 19/01/19

今日は夜中の4時半に電話があったので起きてしまい、それならブログでも書こうと思っていたのだけど細々した用事を片付けていたらもう食事をしてでなければならない時間になったので近況報告的にこんな感じで。なかなか落ち着いて書ける状況にならないなあ。また書きます。

呉座先生盗作批判騒動を読んで思ったこと/「東大法学部を優秀な成績で卒業」という「低学歴」/日本で「反知性主義の民衆反乱」が起こらない理由

Posted at 19/01/14

インターネット、特に私がよく読んでいるツイッターでは常に論争や炎上、「ホットな話題」のやり取りが盛んに行われているわけだが、私も時々ブログ等で取り上げてみたいなと思うことがある。その多くは専門的な内容も含んでいて、あまり下手に手を出すとこちらがやけどをしてしまいかねないことも往々にしてあるのだが、あまりそういう面での深入りはできないにしても切りようによっては自分なりのとらえ方について書けることもあるので、そういったことを斜めに切っていくのも面白いかなと思う。

最近面白いなと思ったのは、日本中世史で今や第一人者と行ってもおかしくない呉座先生の「日本国紀」批判の書評に対し、官僚出身で歴史関係を取り上げて書いておられる作家が自身のフェイスブックで自分の盗作だと批判した文章が話題になり、それが妥当でないと批判を浴びたという出来事があった。

私がこれを読んで思ったのは、おそらくはその作家氏が筆が滑ったのだろうと思うのだけど、その背景には官僚の方々の間にぬきがたくある、「自分たちは学者=アカデミストより優秀だ」という観念が反映されているのではないかということだった。

今の大学改革の議論にしても、たいていは財務官僚やその意図を受けた人たち、あるいは政治家が学者の方々を「世間知らず、世界を見ていない、(はっきり言えば)役立たず」と批判していることが多い。たまにノーベル賞を取られた学者先生の教育行政批判があってもかなり強引にスルーしている。そしてツイッター世間などではかなり学者サイドの方々のそれに対する悲憤慷慨や批判の発言もあるけれども、マスメディアにはほとんどそれが反映されていない、という実態がある。

逆に見ると、世界的に見たら日本の官僚・政治家たちが世界での発言力が弱い原因として、日本の官僚・政治家たちの「学歴が低い」ということが言われている。つまり、世界的に見れば官僚や政治家は多くマスターやドクターを取って専門的な見識の深い人が多いのに、日本の官僚や政治家は多くが学部(東大法学部)卒で、バチェラーしか持っていない、外務官僚に至っては法学部中退の人さえ多くいる、というわけである。

「東大法学部で優秀な成績」というのは日本国内では、とくに『庶民』に対しては威光があるだろうけど、世界的には「それで?」ということに違いなく、それに関してはある一定のコンプレックスもなくはないだろうと思うが、日本の官僚制度では大学院など行っていては出世できないわけで、そのあたりのジレンマがきついのだろうと思う。

大体、大学入試の時点での学力はともかく、専門的な見識で言えば、数十年自分の分野を研究してきたスペシャリストである学者に、ジェネラリストとして与えられた仕事をこなしてきた官僚が敵うと思う方がもともとおかしいのだが、そのへんは官僚の方々は認めないようで、「自分たちの方が視野が広い、実社会や世界と渡り合っている」という自負だけで「自分たちが学者の専門分野においても勝っている」と思いたい感じが常にありありとしている。

学者の方々も確かに「世間知らず」の面は認めざるを得ない点はあるのかその辺は慎重なことが多いが、しかし昨今の「大学改革」によって学問の場自体が破壊されようとしている現状においては、悲憤慷慨するだけでなく積極的に行政批判をする方々も現れてきたのだが、なかなか大きな勢力にはなっていないようだ。

このあたりの構図というのはどこかで見た覚えがあるな、と思ってつらつら考えてみると、『源氏物語』に似たような話があったのを思い出した。これは確か吉本隆明氏だったかが指摘していたことのような気もするが、「少女」の巻に光源氏の長男・夕霧の教育をめぐっての教育論が語られていて、学問的な見識である「漢才」と、実務能力である「やまとごころ」のどちらを重視するかという議論があるわけである。源氏物語で描かれている学者というのは形式的なことにやたらうるさく源氏を困らせている仕方がない人たちというのが一般的なイメージだが、もちろん紫式部本人が漢籍に造詣が深いこともあり、学問の重要性自体は源氏は強調している。実際に実務についたときに重要になるのは実際の事柄一つ一つに臨機応変に対応していく「やまとごころ」がだが、先ずは学問そのものを身につけることが重要であり、それは十分に考慮されてこなかった、というようなことを言っていて、第一の貴顕の出である夕霧を学問所に入れるわけだ。当時の藤原氏、道長流が必ずしも学問を重視していなかったことへの批判があるのではないかと思う。

藤原氏も少し遡れば貞信公藤原忠平ら漢風諡号を持つ人たちがいるように学問(漢才)が重視されていたわけだが、いわゆる文化の国風化とともにその辺はなおざりになってきたのだろうと思われる。

時代を下って考えてみると、日本では(前近代は日本だけではないが)あまり学問が重視された時代は少なく、江戸時代になって綱吉・家宣らの時代、特に正徳の治の新井白石などが数少ない学者優勢の時代だったが、徳川吉宗の登場による幕閣革命によって「やまとごころ」優勢の時代は確立したように思われる。その後明治大正期、また終戦直後にはある程度学問の力が認められた時代があったけれども、また「やまとごころ」重視の時代になっているように思われる。

それ自体がいいか悪いかというのは一概には言えないことだが、「学問」=漢才、「実務」=やまとごころのどちらかが圧倒的に強くなることはやはり弊害があるのではないかと思う。

もう一つ、これに関連して面白いと思われるのは、「反知性主義」の問題だ。トランプ現象をはじめ、多くの国では知性=アカデミズムに対する反乱がおこってきていて、それは政府中枢、EU中枢に「知性の権化」である専門知性を持った官僚たちが蟠踞し、「庶民」がそれに反乱を起こす、という図が成り立っている。

しかし日本ではそうした「反知性主義」の問題は絶対的な国家の存立を脅かすような大きな問題になっていない。民衆反乱的な現象は起きていない。それは、今まで述べたように、実は「政府中枢=官僚」の側が「知性」の立場ではないからなのではないか。トランプのように政治の側が反知性が取る、ということは民主主義社会ではあり得ることだけど、日本の場合は官僚制度そのものが「学歴の低い」人たちによって占められており、つまりは根本的に「反知性」の側に立っていて、「知性」の側に立つ「学者」やまた比較的学歴の高い「野党・リベラル・左翼」を攻撃する側に回っている、という日本独自の現象があるからではないかということに思い当たった。

そう考えてみると冒頭に書いた呉座先生を批判した官僚出身作家のケースもそうした図式の中で見てみると興味深い現象の一つだと言えるように思う。

まあ結論としては、行政・官僚の側はもっと学問の専門知に敬意を払い、研究が自由に活発に行われる土壌をもっと整備する方向で対応するべきであると同時に、学問・アカデミストの側が積極的に自分たちの価値を発信し、また現実への対応能力を高めていく必要があると思う。「学者バカになってもいいがバカ学者になるな」という言葉がもてはやされた時代はもう過去のことで、「学者バカ」だけの社会ではもう学問の世界は守っていけない段階になっていると思う。豊かな専門知を持ったうえでさらに行政的な能力、政治と丁丁発止する能力を持った学者が出てこないと学問の世界を十分に守ることはできない。「漢才」だけでなく「やまとごころ」もまた学者に求められる時代になったということであり、学界内部での評価もまたそういうところも考慮して行かないと、日本の学問自体が危ない状態は解消されないのではないかと思う。

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