批評家と学者と宗教家と教育者と政治家と作家の書く文章の違い/日本初の女性総理大臣選出へのカウントダウン
Posted at 25/10/21
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10月21日(火)うす曇り
今朝の最低気温は8.2度。昨日は15度くらいはあった気がするので、日本上空に寒気が入ってきたのだろう。この時期らしい気温になってきた。最低気温が8度になると紅葉が始まるということなので、もうそんな季節ということになるか。今年はずっと秋は名のみの風の暑さよ、だったのだが、ここにきてようやく秋らしく、というか冬が近づいている感じになってきた。少し早い。
今日は臨時国会が招集され、午後1時から首相指名選挙が行われる予定のようだ。NHKの中継は一応録画をかけておいた。多分生で見られると思うが。やはり日本最初の女性総理大臣の誕生は生で見たい感じはする。女性初の衆院議長は土井たか子氏で1993年、参院議長は扇千景氏で2004年。これで高市早苗さんが総理大臣になれば、三権の長のうち残っているのは最高裁長官だけということになる。司法に関してはいろいろ言われていることもあり、特に急ぐ必要もないと思うが、高市さんは左派も含めてこれだけ「ガラスの天井」、反対がある中で実現しようとしているのだから本当にすごいと思う。頑張っていただきたい。
文章について考えていて、自分が書きたい文章というのはどういうものだろうかと改めて考えているのだけど、一つには「評論ではない文章」、つまり何かの作品があってその批評や評論をする文章ではなく、ある種の論説文、エッセイ、あるいは小説などのフィクションのような、「何か前提になるものがあってそれがなければ成立しない」というようなものでない、「自立した文章」みたいなものを書きたいのだな、ということを思った。
ただこれは、批評や評論を書きたくないということではなくて、そうした自立した文章の方が満足度が高い感じがする、ということである。もちろんどんな文章も何かについて書いていることは確かだが、なんというか「作品」とか「人物」とかの「知名度」に頼った文章ではないもの、という感じだろうか。
今のところは、自分のnoteのビュー数の上位10本のうち、8本が漫画のレビューで、あとは自己紹介。七番目にビューが多いのはトランプ政権の関税政策を推進したとされるオレイン・キャス氏のインタビュー内容について書いたもので、これは今年4月、トランプ関税が問題になったときにその背景を探るという需要があってそれにちょうどタイムリーだったということがあったのだと思う。まあそういう意味ではこれも評論とか感想の類でオリジナルという感じではない。
文章について文章を書くのが評論や批評、文章について批評や学問の方法でものを書くのが学者、これは文章でないものについても学問の方法でものを書けば学者だが、対象についていわば「無」から言葉を立ち上げるのが「作家」であり、作家の書く文章は「対象がなくても成立する、そういう意味で自立した文章」だ、というふうに考えた。
そういう意味では、私は「作家として」文章を書きたい、ということなんだろうと思う。ただ、全くの無から何かを創造するということはもちろん人間には不可能で、言語自体が歴史的な生成物である以上、人間というものの物理的・生物的あるいは文化的な成立条件に依拠してのみ、文章は成立することは間違いない。
最も古い文章においてもすでに「生きる」という営為に何かしら反映するものとして文章は書かれている。また神という存在を看取して、それについて書いていたりするのは、通常の人間には看取できない存在を仮定しないと説明がつかないことが多すぎるために元始の人々のある種の合理性によって仮定されたものではないかとも思う。
そういう意味では宗教者の書く文章は何かしら「教え」が含まれているわけで、それが世俗化したのが「教育」なのだろう。そう考えてみると教育というのはもともとかなり不自由なものだという気はするが、まあそれはおいておこう。
また、いわゆる政治性の高い文章もあり、そういうものは「怒り」が表現されていることが多い。「給料日の怒りを国会へ」というのはかつてあったサラリーマン新党のキャッチフレーズだが、今の参政党の「日本人ファースト」などというのもその背景にはある種の怒りがあるだろう。石破茂首相(午後には首相で亡くなると思うが)もある意味で言葉の使い方の上手い人で、昨年高市氏を決選投票で破ったのは、「夏祭りの夜」の郷愁に訴えたことが勝因の一つだと思うのだけど、それもまた「それが失われている悲しみや怒り」が聞いている自民党議員たちの心に訴えたということなのだと思う。
いずれにしても作家の書く文章は自立はしているが、学問のように方法論が重視されたり、宗教のように「教え」が含まれていたりは必ずしもしないが、読むものはその文章の中に「真実」を見出したり、「人生」を見出したり、何かが解き明かされたり、、大事な「価値」を見出したり、「教え」を見出したりすることになる。
またエンタメに寄った作品になると、そこに「喜び」を見出したり「楽しみ」を見出したり、「悲しみ」を見出したりもするが、それはそのように感情を揺さぶられることを求めている人が多い、ということなのだろう。手や足や体は使わないと衰えるが、心もまたそのように時にしっかりと動かないと、衰えていくということはあるのだと思う。そのようにして心がリフレッシュするから人はエンタメに惹かれるのだろう。
学者には「ある種の真実や知見」が、宗教家や教育者には「教え」が、政治家には「怒り」つまり「良くない世の中をよくする」というものが訴えたいものとしてあるわけだが、作家の場合は書こうとしたものがストレートに伝わるとは限らないから、そこに「批評」や「感想」といった手助けが必要になることが多いのだろう。「これ描いて死ね」のバハムート昇が「ここからは君の物語だ」というのは、作家は結局は書きたいものを描くのだけど、それを読んで感銘を受け、それを人生その他に役に立てていくのは、読者の仕事だということなわけである。
ということを考えた。今日はこれから松本に出かけるのでこの辺りで。
3つの「信じられないニュース」:大谷の大活躍、ルーブル強盗、「グエー死んだンゴ」の起こした大きなうねり/「グローバルヒストリー」の必要性と課題
Posted at 25/10/20
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10月20日(月)曇り
朝方は雨が降っていたが、大体上がってきたようだ。今日から庭の手入れで庭師さんが入るので、少しばたばたする感じはある。
昨日は午前中家の中でいろいろやっていて、午後は松本に出かけるつもりにしていたのだが、昼過ぎに庭師さんから電話があって梯子を運びたいというので車の移動などし、来てもらった時に少し打ち合わせをした。その後で母の古い友達の奥さんという人から電話があって、施設に行ったけど会えなかったとのことで、お見舞いだけ職場の方に置いていく、ということで、お悔やみとお礼を言った。今朝母と電話が通じた時にその話をしたら、その人のことはよく覚えていて、地元から慶應に行った人だと言っていた。最近母もいろいろ衰えた感があるのだが、そういうことはしっかり覚えているのだなと思ったり。
午後出かけて職場でお見舞いをピックアップし、隣町の図書館で本を返却して、そのまま高速に乗って塩尻北インターまで行き、19号で南松本まで行ってみた。高速は順調、19号はそれなりに渋滞したが、思ったよりは時間はかからなかった。庭師さん達に出すお茶の準備のお菓子を買った。そのまま下道で松本市内に出て、久しぶりに丸善に行った。いろいろ本やマンガを見てみたが、目に止まった水島司「グローバル・ヒストリー入門」(山川出版社世界史リブレット127、2010)を買った。
グローバルヒストリーはそのまま訳せば地球史あるいは世界史だが、要は西洋中心史観を相対化して世界の歴史を組み立て直すということであり、また文献的なものだけでなく気候の変化などの自然科学的な部分も取り入れてみていこうということだと思う。この流れは日本の歴史学にもそれなりに入ってきていて、「荘園」などを読んでいても高温期と低音期の移り変わりが干害や冷害などになって現れているのがよくわかり、より立体的な歴史が組み立てられることにつながるなと思う。
特に重要なのはアフリカなどの諸国が成長してくるにつれ、「自分たちの歴史」が必要になってくるということで、アフリカでは口承伝承を生かした歴史の組み立ての試みなども行われているけれども、より広い世界の中での自分達の歴史の位置付けというのは今後ますます必要になってくるだろうと思う。
日本では有史以来「中国・朝鮮半島との関係」という問題が常にあり、戦国期以降、特にペリー来航以降は欧米との関係も問題になって、日本史と中国史を中心とした東洋史に加えて列強の歴史としての西洋史も取り入れることで3本だての歴史理解が行われてきたからそうした試みを早くからやっていた国だと言えると思う。
ただやはり国史・東洋史・西洋史各分野はまずは自分達が扱う対象を優先して調査してきたわけで、それを総合した世界史というものが本当に成立していたかは難しいところである。いずれにしても自国史は国民としてのアイデンティティに関わる問題だから必要なのだが、それを超えた中規模な範囲での地域史(アフリカ史、アラブ史など)や、世界史のイニシアティブ(まあ覇権と言ってもいいが)をめぐる歴史なども大きくは掴めるようなものは必要だろうと思う。
しかしその中で一つ重要なのは、歴史上は搾取と被搾取、虐殺その他ポジティブでない面も多々あるわけだし、またハザールとアシュケナージの起源などあるところではタブー視されているような研究テーマもあるけれども、そこをより客観的にみていくということと各国の政治的主張とまた別のところで研究すべきところ、また優越史観や被害者史観にのみ囚われないような考え方も必要になってくるだろうということである。特に被害者史観は今はいろいろ問題になり、「白人側」「先進国側」の反発も大きくなってきていると思われるので、「新たな公平」みたいなものも見出していく必要はあるように思われる。
本を見た後バスセンター地下のデリシアに行って夕食の買い物をする。米を見たが高いのでやめて夕食の買い物のみ。1時間ギリギリで駐車場を出て、高速で帰ることにした松本インターで乗ったのだが、行きにみた時に岡谷ジャンクション手前の上り線の工事渋滞がかなり長かったのと、その渋滞を抜けるのに60分という表示を見て塩尻インターで降りて20号で帰ることにした。九十九折、というほどではないけど対面通行の峠道なので運転に慎重さを要するが、速い車が登坂車線を走っていてなるほどと思った。まあ本当は良くないが、暗い時はその方が安心だろう。あまり混雑することなく岡谷に出たのでなるほどこのコースは帰りは下道の方が良いなと思った。
隣町の西友で米を買おうとしたがどれも5kg四千円を超えていたのでやめて、駅前のスーパーにダメ元で行ってみたら消費税がついても四千円を超えないものがあったのでそれを買った。なんだかんだ言っても米は高いがないよりはマシだし、まあ新米だから高いんだろうなということはあった。
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https://www.fnn.jp/articles/-/947746
ルーブル美術館に強盗が入ったという俄には信じられないニュースが出てきたが、重機を使ったかなり荒っぽい手口で、ナポレオン関係の宝石を狙った犯行だったらしい。強盗団が走り去った後に冠が落ちていたといい、これはナポレオン3世の皇后・ユージェニーのものだということで、相当傷んでしまったらしい。嵌め込まれていた宝石も落ちているのではないかとかいろいろと言われているが、こんなマンガのようなことが実際に起こるというのは、警備など様々な問題があったということなのだろうなとは思う。ルーブルなど、外から見た感じではそんなことができそうな場所には思えなかったのだが。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/28b76bbacd658ece3277ca89ebe269bb15a6e7c1
リーグ優勝決定シリーズ最終戦での大谷の活躍が衝撃を呼んでいるが、7回途中まで投げて10奪三振、打っては3本塁打というのは確かになかなか信じ難い話ではある。私はすぐ1967年に巨人の堀内恒夫投手が広島戦でノーヒットノーランを達成した時に3打席連続ホームランを打ったことを思い出したのだが、やはり60年台のプロ野球と2025年のメジャーリーグのポストシーズンの試合とでは注目度が違うということだろうか。
堀内という投手も実は打撃の良い投手で、通算でホームランを21本、二塁打を26本打っている。400勝投手の金田正一はホームラン38本、代打で2本ホームランを打っているのでそれには及ばないが、甲子園では四番を打っていたピッチャーも多いわけだし、今なら大谷のように二刀流が可能な選手もいるのかもしれないなと思ったりはした。
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ただ、ここのところインターネットで一番話題になっているのは「グエー死んだンゴ」というツイートだろう。
https://x.com/nkym7856/status/1978053179700060502
これは22歳で癌で亡くなった北大生の方とのことだが、亡くなる前に予約投稿してあったらしい。この潔い、死に臨んでもユーモアを忘れない精神に対して、多くの人が心を動かされ、心から「成仏してクレメンス」というリプを送っているのは近頃にない感動的な話だと思う。
ただ当然のことながら、22歳での死というのは痛ましい話であり、また生前交流がなかった人が葬儀などに出席するわけにいかないので、彼の死を悼んで多くの人が癌センターなどの研究・治療機関に「香典として」寄付を行なっているらしく、相当多くの額が集まっているようである。
https://x.com/the_m_r_p/status/1979516811084546141
当然ながら身内を癌で亡くした人も多いわけで、そういう方々も寄付を行なっているようで、これで日本の癌研究が少しでも進んでくれたらいいなと思う。
日頃は殺伐としたネットであっても、こういうムーブメントを起こせるくらいの余裕が今の日本にはあるのだなあと思うと、ちょっとホッとするニュースでもあると思った。
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政治の方は今日、自民党と維新の会の再協議が行われ、明日の国会で総理大臣が指名される見通しだとのこと。とりあえずはしっかりした体制で新しい内閣をスタートさせてもらいたいと思う。
「絢爛たるグランドセーヌ」147話感想:大役を演じることで覚醒する主人公/「これ描いて死ね」8巻:新キャラ「バハムート昇」が最高に面白い(「小説のストラテジー」感想続き)
Posted at 25/10/19
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10月19日(日)曇り
昨日は仕事が終わった後でかけてまず書店で「チャンピオンRED」を探したのだが無く、スーパーで夕食などの買い物をして、帰りにツタヤに回って書棚を見たら「RED」があったので買った。いつもいく書店は以前はマンガ雑誌が充実していたのでかなり頼りにしていたのだが、最近ときどきないことがある。地元のツタヤは以前に比べ単行本がもう一つだが雑誌は思いがけないものがあったり、さまざま。どこにもなくて結局Kindleになることもあるが、やはり紙の雑誌は嬉しい。最新話はともかく単行本になってから買えば読めることは読めるが、雑誌の方が印刷サイズも大きいので、マンガを読んでいる実感はやはり初出の掲載紙で読んだ時が一番ある感じがする。掲載誌をずっととっておくほどのスペースはないので読んでいる作品が単行本化したら処分するので、Kindleで買ったほうがずっと読めるということはあるのだが、Kindleだと読んでいる作品しか読まないということが起こりがちなので(雑誌でもそういうことはよくあるが)雑誌の重量感みたいなものが嬉しいところがあり、紙の雑誌への愛着はなくならないなと思う。
以下、ネタバレです。
「絢爛たるグランドセーヌ」は147話「大役」。主人公・奏(カナデ)の師のアビゲイル・ニコルズ初の振り付け作品である「パエトーン」がウィーンで上演されることになったが、コロナで出演できない主演の「ケレス」の代役に奏が抜擢され、急遽ウィーンに飛んで、日本のバレエ団時代に一緒に頑張っていた翔子と同じ舞台に立つことになる。
この役は、ニコルズの推薦で初演の際に学生ながら奏が演じたのだが、その踊りにニコルズは不満を持っていて、次の舞台では同じ学生仲間のに振られ、そちらの方が良かったということがあり、奏はその役を掴むために様々な努力をして、学生の試験の舞台でもう一度踊った時にニコルズに激賞された、という伏線がある。
学生で恋愛経験も子育て経験ももちろんない奏が大地母神という役の性根を掴むのに「守りたいものはないか」と聞かれてコロナ禍の状況の中で「バレエを踊れる世界を守りたい」と言ってそのスケールの大きさに驚かれる場面があるのだが、もう一つ言われたのは「どうしてもわからなければ振り付けを信じて踊ればいい」という言葉で、奏はそこに集中して踊ることによって、ケレスがどういう存在なのかを掴む、という展開があった。
これは今読んでいる「小説のストラテジー」の「記述の律動」、「深層を考えるより表面に集中する」という話に似ている、というかおそらく同じことなのだろうなと思った。
これは芝居(演劇)でもそうで、いわゆる「役作り」はするにしても、結局はそのセリフに込められた言葉の表層みたいなものをどれだけ役者が体現できるか、ということが作品の出来を左右するのだよな、と思う。その役の解釈は深めた方がおそらくは良いことは多いのだが、振り付けやセリフという言わば「表面」こそがキャラクターやドラマの根幹になる、ということなのではないかと思った。
そしてこの舞台の前にニコルズが楽屋の奏を励ましに来るのだが、「これは賭け。今度こそこのチャンスをものにして。決して失敗しないで。信じてるよ、奏。」と言われて、奏はそれを受け止めて「はい」と答える。同じく楽屋を覗きにきた翔子はニコルズの言葉に圧倒され、奏に「ニコルズ先生いつもあんな感じなの?」と尋ね、「うん、一言一言に重みがあるから身が引き締まるんだよねえ」と答える。翔子は「そうだったこの子鋼メンタルだった」と思うのだけど、こういうやりとりから奏というキャラが浮き上がってくるのがいいなといつも思う。
そして舞台上、踊り出した奏を見て、観客がパンフレットの配役表を慌てて見直すのが良い。「誰だ?あれは」そして答えのように「地を統べる 神話の女神」と奏が踊る場面で終わるのだが、まさに「抜擢された新人が大役を踊り、観客がその踊りに圧倒されて驚く」という場面の迫力が描かれていて、良かったなあと思った。扉に「本番直前の緊張感が更なる覚醒を促す」とあり、こういうあたりもこの作品が男性向け漫画誌である「チャンピオンRED」に連載される理由ではあるのだろうなとも思った。
***
10日に出た「これ描いて死ね」8巻が面白くて、何度も読み返している。新しく出てきた「バハムート昇」というキャラが面白いからである。この人は漫画家で、作中の王島南高校漫研のメンバーですでにセミプロの力を持っている石龍ヒカルの父であることが後で明かされるのだが、ヒカルの母は「へびちか」というペンネームで売れっ子であり、彼女らの先生である手島先生がアシスタントをしていたこともある人なのだが、ほとんど他人に興味を示さないへびちかは手島先生のこともほとんど覚えていない。ヒカルはこの2人の娘ということになるが、作中主人公の安海相(やすみ・あい)の1年後輩である森咲麗(もりさき・うらら)がバハムートの大ファンで、彼女らが参加したマンガ甲子園(この大会は実在し、高知で毎年開かれている)の審査員にバハムートが初めて出てくる。
「なんかこの作品に関心が持てないね」「競技のための漫画というか縮こまっている感じがするね」「審査ばっかり気にしないでもっと自由に描きなよ」と正論だがめちゃくちゃつっけんどんな評価をして特にバハムートの大ファンであるウララを落ち込ませる。
しかしそれで奮起した王島南メンバーが「仲間」をテーマにした作品を描き、バハムートに審査員賞をもらうのだが、授賞式で「先生のマンガに仲間の大切さを教えられました」というウララにバハムートは「漫画の感想を聞かれた時にいつもそんなこと描いたっけと思う。・・・それは僕が提供した素材で読者がクリエイトした結果なんだろう。・・・だから君の感想は君のものだよ。これからは君の物語だ。」という。
この辺りも「小説のストラテジー」の小説を含む芸術作品を鑑賞するという行為は「戦い」であり、多くの読み方ができる作品こそが「作者が現れた」作品であり、鑑賞者の側も新たな読み方を生み出していく、という話につながっていて本当に面白かった。
しかしこのバハムートの面白さはそれだけではなく、一番面白かったのはラスト39話「ロストワールド8」に描かれたへびちかとバハムートの出会いである。「ロストワールド」は今まで手島先生の過去話だったのだが、今回は初めてへびちか先生の過去が描かれていて、へえっと思った。
へびちかが持ち込みで編集者に「この主人公、なんでこんなに性格悪いんですか」と聞かれる場面から始まるのだが、その主人公は周りの人間を見て「みんな目が死んでる」と思い、1人の男子に対してだけ「あ、(目が)生きてる!」と思うのだが、普段から彼女は周りの人間に合わせることが苦手、というか合わせる理由がわからないと思っていて、すぐ「おかしなこと」を言ってしまうのを一生懸命周りに合わせている、という感じだった。それが持ち込みに来たバハムートとばったり会って「(目が)生きてる!」と思うのだが、バハムートは「邪魔だメガネ!」と言って去る。
へびちかはそれを根に持っていたが、飲み会で偶然再会したバハムートに手にしていたネームを読まれ、バハムートが涙を流す。バハムートはその席で世界中で一番面白い漫画を描く!と宣言し、周りが引いているので「帰るわ」と言って外に出るのだがへびちかは「私より空気を読めない人に初めて会った」と思う。
で、結局へびちかはバハムートから渡されたネームを読み、「自分も彼もこの世界に殺意を持っている」ということに気づく。
ここは、またいきなり「小説のストラテジー」の話に戻るが、年間読書人さんのいう佐藤亜紀も彼女が評価するナボコフもシャーデンフロイデの人」という話に繋がるわけである。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5f1e857643c8
「ただ、佐藤亜紀は、最終章において、本書で繰り返し肯定的に言及した、ウラジミール・ナボコフの「シャーデンフロイデ」つまり「他人の不幸を喜ぶ(かのごとき、意地悪な態度)」というものを語って、ほとんど自分自身の立場と態度を表明している。
要は、一般的に言って、佐藤亜紀は、ナボコフと同様、「嫌なことを書く、嫌なやつ」であり、自身もそのことを重々承知しているのだ。
だが、そんな佐藤亜紀もナボコフも、馬鹿ではない。
むしろ知的には明晰であり、まただからこそ、世間が馬鹿ぞろいに見えて仕方ない。だから「嫌なこと書く」ことにもなる。これは必然なのだ。
「シャーデンフロイデなのも仕方ないだろう、だって馬鹿ばっかりなんだから」と、そういうことである。」
ここでのへびちかやバハムートが抱えているモヤモヤというのは、まさにそういうことだろう。
バハムートと自分は似ている、ということに気づいたへびちかは「もっと上手くやる」と思い、「さようなら優しくて穏やかでニコニコの世界。お前らみんなぶっ殺す!」と思い、また身なりもアラレちゃんみたいな丸くて大きなメガネにポニーテール、身なりに構わないオタク女子、みたいな服装からコンタクトをして髪色も明るくし、フリフリの服と大変身して、自分の描きたいことも主人公を「異世界から来た異物」みたいな存在に設定して日常世界との振れ幅を大きくする、という「うまい」やり方を見出すわけである。へびちかもこうして「シャーデンフロイデの人」として歩み出すわけだが、バハムートのその後は描かれておらず、気になるところである。
おまけを書いておくと、バハムートが後に王島南メンバーと再会した時に「賞に選んだのはあの作品が一番嫌いだからだ。嫌いでも心が動いたのは事実だ」と言ってドン引きされるのだが、ヒカルが「でもパパ今の自分には描けない、悔しいって言ってたよね」と言ってバハムートは「ヒカルちゃんやめて!」となるのだが、この辺りは手塚治虫が新しい漫画家の躍進にいつも嫉妬していたとか、手塚のアニメをやっているのに子供が他のアニメを見ていて気を使った奥さんがチャンネルを変えようとしたら憤然として「見たいものを見せろ!」と悔しそうに言ったとか、そういうエピソードを思い出した。手塚もやはり「世界を殺してやる」と思って描いていた人なのだなと改めて思ったのだった。
佐藤亜紀「小説のストラテジー」:「記述の律動」と「西洋古典鑑賞入門」/太宰治のコラージュ作品/連立工作の行方
Posted at 25/10/18
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10月18日(土)
昨日は朝セブンに行った時に「キングダム」を買い、帰ってきてブログを書いて、少し草刈りをし、作業場で少し本を整理して昼前に駅前のスーパーに出かけてATMで記帳したりお昼の買い物をしたりした。
いろいろ考えていて、どうも自分はフィクションを書くことに思ったより執着があるということがわかったから、「自分を取り戻す」というテーマを考えてフィクションというか文芸的文章表現に取り組んだ方がいいのかなということを巡っていろいろ考えている。今書いている政治とか様々なことについての論評的な文章に比べて、雲を掴むような感じがしてしまうので迷ってはいる。
ただ、「記述の律動」のようなことを考えるとそうした文章を書くのも「空想の世界に心を遊ばせる」みたいなこととはまた違うことだなとも思い、ある意味地に足がついた形でできるのかもしれないとも思う。考え方を整理して行きたい。
***
佐藤亜紀「小説のストラテジー」は一度途中までは読んだことがあるようなのだけど、その時の読書記録が残っていないのでその時に読んで何をどう思ったのかよく分からない。第4章のあたりにしおりを挟んであったのでその辺りまでは読んだのではないかとも思うが、今読み直してみても内容をほとんど覚えていないのでよく分からない。なぜこの本を手に取ったのかも分からない。いろいろ迷っていた時期であることは確かなので、その時の試行錯誤の一環だろうと思うのだけど。
今38/249ページのところを読んでいて、章としては第2章の途中である。第1章はマニエリスム時代の画家・ヴェロネーゼの「カナの結婚」という大作について、作品というものを深く鑑賞するのはどういうことか、それは描かれている「表面」をしっかり味わっていくことなのだ、というようなことが書かれていて、これはつまり読書人さんのnoteで取り上げられていた「記述の律動」こそが小説の鑑賞すべきところだ、という佐藤さんの考えを、言語を用いないより抽象的なレベルでの鑑賞の仕方の例として挙げているのだと思う。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5f1e857643c8
作品を鑑賞し、評価することとは書き手と読み手の闘争である、というのが佐藤さんのテーゼの一つなのだけど、つまり読む側も主体的に読もうとして読まなければ立ち上がらないものがある、ということで、受け手も安易に受け取れば済む、というあり方を批判している。「エンタメとしての読み」というのも私はあるとは思うが、マンガなどでもそうだけど読みながら自然に良くも悪くも批判・評価していることも確かなので、そこら辺は主体的に読んでいることは確かだろうなと思う。
また、「審美的判断の不一致を客観性の欠如と解釈して有効性を否定する人もいます。だから問題にすべきはその作品が審美的にみて是か非かではなく、その思想性、イデオロギー性なのだ、という方向で論じられることもあります。この硬直ぶりにはみていてちょっと愉快なものがあります。おそらくは教室でしか瀬シェイクスピアを読んだことがない、レクチャー付きのシアターでしか絵画作品と向かい合ったことのない、純粋な教授の快楽を感じたことなぞ一度もない鑑賞者が飛びつきそうな意見です。」というのは舌鋒がかなり鋭くて、フェミニズムやポストコロニアリズムの物差しを当てて批判し文章を書いているだけだ、というのは極端な話Twitterなどでもよくあげつらわれている話でもある。
「書きつつある作品の、表現としての可能性を汲みつくそうという本能に書き手が忠実であれば、受け手の解釈も価値判断も多様化するだろう」というのがオスカー・ワイルドの「批評家の意見が一致しない時、作者は自分自身と一致している」という言葉を佐藤さんが解釈したものだが、良い作品というのは解釈が必然的に多様になるという、まあ私が考えれば当たり前だと思うことが書いてあるのだけど、「この作品の解釈の定説」であるとか、それ以外は認めない、みたいな言説はかなり多い。
面白かったのは、マリオ・ブラーツ「ムネモシュネ」の引用で19世紀末にプロが見ても見抜けなかったボッティチェルリの贋作が今では素人目に見てもボッティチェルリに見えないという話で、これはその時代の人たちが見ていたボッティチェルリを再現したからで、作品を見る目が時代の変化によって変わったためにボッティチェルリに見えなくなった、のだという。本物はいつまでも本物だが、本物に似せて描いたものはその時は受け入れられても時代の視差に耐えきれるものではない、というわけである。
これは逆に言えばその時代にはもてはやされた真作でも、時代が変われば見向きもされなくなることもあるということで、真贋そのものが理由ではなくて我々が時代を越えて持っている「ある原始的条件」が確実に作用しているからだろう、ある作品を別の視点から見ても得られる快楽は揺るがない、というものがあると言っていて、「それは私の信仰告白である」というようなことも言っている。
これは例えば「観察や観測、公理や論理によって導かれる科学的なものの見方」も裏がえしてみればある種の「原始的条件」だとも言えるようには思う。「それが科学的に正しい」というのも現代において最もオーソライズされているだけではなく、原始の人々にも納得される部分はあるだろうからである。
第二章は言語を用いた表現の例として、アイスキュロスの「アガメムノーン」の鑑賞について書いている。
「アイスキュロスのアガメムノーンは論の向こう側に想定されるような「確定済みの実体」(カッコは引用者)ではなく、読み手が、提示された広がりの前に立ち、ひとつひとつの語、ひとつひとつの記述と向かい合う時に感知されるであろう運動のことです。」
など、佐藤さんの論旨に沿った例としてこの演劇、あるいは戯曲が鑑賞されていて、まだ読みかけだが面白いなと思う。
佐藤さんはルーブル美術館の最大の絵画であるヴェロネーゼ「カナの婚礼」(ナポレオンがヴェネツィアのカテドラルから略奪した際、あまりに巨大なためにキャンバスを水平に切断し、丸めてパリに運搬したという。またイタリアからの返還要求に対して「巨大すぎて無理」という理由で返還に応じていないというが、ナチスにパリを占領された際には奪われることを避けて南仏に何度も運んでいるらしいのであまりに見え透いていておかしいが、イタリア軍がパリを占領するようなことがない限り返還は難しいのかもしれない)であるとかアイスキュロスの「アガメムノーン」であるとか、ヨーロッパの正統教養の中でもかなり上級だと思われる例を出してきて議論していることで、ある種の古典鑑賞案内にもなっていて、その点でも読み応えがある、という感じはする。生き残ってきた古典には当然ながら「力」があるわけで、その「力」と対峙することが鑑賞という行為である、というところに佐藤さんの論の説得性が出ているということなのだろうと思う。
***
「記述の律動」ということでいうと、普通は文体ということになると思うけれども、例えば太宰治の最初の創作集であり、芥川賞の候補にもなったという「晩年」(昭和13年)に収められた「葉」という作品がある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2288_33104.html
一読してわかると思うが、これは一つの作品としての脈絡はなく、様々な文章や詩句の断片をコラージュ的に一つの作品にまとめたものである。これは1984年に自分が参加していた芝居の戯曲に一節が引用されていたので初めて読んだ作品なのだが、これにはかなり衝撃を受けた。最初の作品集が「晩年」であり、その冒頭の作品の書き出しが「死のうと思っていた。」である。太宰という人はもちろんずっと「死」というテーマの周りを回っていた人だという感じがするわけだけど、そのあざといまでの演出に20代の自分はものも食らった感じはあった。そして文章を追っていっても簡単に言えば意味がわからない。もちろん繋がりがないから当然なのだが、読む方が勝手に繋がりを見出してしまうところが人間なのだろう。
述べられている話も印象に残るものが多く、「石が動いている」という話などは当時の自分の落ち込み具合をまざまざと思い出すような話でむしろ今では苦笑してしまうのだが、当時は割と深刻に受け止めた記憶がある。最後に「生活」という作品中作品というか詩があって、これも絶望というか諦念というかの表現が絶妙で、本当にある種の文学青年はここで呪縛されたんじゃないかなという感じはする。
今読んでみると、というか「記述の律動」という話で思い出したのはこの作品で、つまりこれは文脈自体が解体されているわけで、一段落一段落が別のものを指向しているわけである。それなのに何故かまとまりがあるのは、いわばすべてが太宰の文体、太宰の記述するノリみたいなもので統一されているからだろう。
こういう「記述の律動」というのは例えば映画でもそうで、映画でもよく「映画の文法」というものがあると言われるが、その用い方が特徴的な作家もいる。私が思い出したのはフェデリコ・フェリーニだが、「甘い生活」という作品では冒頭で巨大な製造をヘリで空輸する場面から始まり、いきなり鬼面人を驚かす感じがあって、作家を志しながらも日々のパパラッチとしての生活に流され、漠然とした不安を感じているのをラストに巨大な怪魚が海辺に打ち上げられる描写で終わっていて、もちろん一つ一つの要素も面白いのだが、(大体巨大な聖像を空輸するというイメージ自体が面白い)その見せ方、フィルムのつなぎ合わせ方、あざとさのトッピングみたいなものがフェリーニらしいと思わせ、ついみる方が嬉しくなる、つまり快楽を感じるということになる。
いろいろな素晴らしいイメージが浮かばないからフィクションは書けないな、と思っている人間にとっては、一見大したことないような日常的なものでも記述に律動を生めたら作品として成立する、というテーゼは、ある意味書く方も読む方も解放する部分があるのではないかと思うし、読書人さんの書評を読んでいたときはそういうものとしてこの言葉を読んでいたのだけど、佐藤さんの原著に戻ると「カナの婚礼」だとか「アガメムノーン」だとかめちゃくちゃ敷居が高そうな例ばかり引用しているのがおかしいというか、ある意味意地悪だなと思ったのだけど、まあそういうのがある種の読書人さんのいうところの「シャーデンフロイデ」である気もするし、まあ読む方参考にする方はある意味勝手に読めばいいだけの話なので、参考にするべきところはして古典の鑑賞のガイドみたいにも読めるなと思っていればいいのではないかと思った。
まだ書いてないことはあるがなんとなくまとまりが出たのでとりあえず今日はここまで。
***
連立工作の方は自民と維新が軸になることになりそうだが、維新が国会議員定数の削減を言っていて、もう少し国民生活に関わりのあることからやってもらいたいと思うのだけど、交渉内容は本当にはわからないのでこちらとしてはまずはちゃんと総理大臣を指名し、ちゃんと内閣を組んでもらいたいということしか言えない。
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