自分の描いた絵に恋することができなければ/「バーナード嬢曰く。」8巻:「ブレーメンの音楽隊」とは何だったのか/エプスタイン・ファイルとかクリントンとか「常人仮面」とか

Posted at 26/02/28

2月28日(土)晴れ

一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、などというが、今日で2月も終わり。明日からは3月だ、と思うと確かに早い。2026年ももう6分の1が終わりである。最近はずいぶん暖かくて、2月の末に降雪を心配していた年が嘘のような感じがする。令和ももう8年。21世紀も4分の1が過ぎた。年月が経つほどに確かに世の中も世界も変わっていて、自分の中の自己同一性も同じなのか変わってきたのかよくわからないところもある。肉体的・身体的にはやはり経年劣化のようなものはあるが、私は相変わらず私なのだし、そこは不思議な感じはする。

昨日は午前中母を松本の病院に連れて行く。いろいろと教訓を得てきたので、今回は高速を使ったがあまりスピードを出さずに、80キロを守って走行した。ビュンビュン追い抜かれて行くのだが、少し早く走ると母に身体的な負担がかかるようで、少し時間がかかっても体に影響が出たら本末転倒なので。今回はその他のこともいろいろ注意して用意していたこともあり、特に支障が生じずに通院することができてよかった。昼過ぎに母を施設に送り届け、ツタヤへ走って「ギャラリーフェイク」40巻、「バーナード嬢曰く。」8巻、「BLUE GIANT MOMENTUM」7巻、「ありす、宇宙までも」6巻を買った。帰ってきて昼食を取り、銀行に出す書類があったのですぐ職場に行って書いて提出に行き、お金をおろそうと思ったが月末でATMがすごい行列だったので、セブンに行っておろした、帰ってきて一息入れた。

夜は12時ごろ入浴して寝たが3時ごろ目が覚め、腕が痛いので起き出して脚湯をし、体が緩んできたのでバスタオルを補助に当ててとりあえず寝たのだが、起きたら6時だったのでそれなりには寝られたと思う。お茶を飲んだり着替えたりした後で車で出かけ、隣町のセブン併設のスタンドに給油に出かけ、丘の上のデイリーに行って塩パンとゴーダチーズの塩パンを買って帰ってきた。

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昨日は「バーナード嬢曰く。」8巻を読んでいたのだが、ちょっと感動してしまったエピソードがあった。「137冊目 ブレーメンの音楽隊」なのだが、主人公の町田さわ子が図書室に臨時に置かれた長椅子で寝転んでグリム童話を読んでいるのだが、そこに神林がやってきて会話になる。

「ブレーメンの音楽隊」というのは不思議な話で、「ブレーメンにも行かないし音楽隊にも入らない」というのは全くその通りで、私も子供の頃読んだときにブレーメンという知らない街の話が出てくると思っていたのに出てこなくて拍子抜けしたことを思い出したのである。それを町田はこう解釈する。

「つまり「ブレーメン」も「音楽隊」も「ここではないどこか」の言い換えでしかないって、言葉にしてないけど互いに理解してるんだ。だから安住の地を見つけたら躊躇なく旅をやめちゃう」

これは衝撃というか、そういうふうに考えたことはなかった。しかしドイツの話というのは「ハメルンの笛吹き」にしてもそうだが、確かに「ここではないどこか」への憧れのようなものを感じるものは多いのだよなと思う。

そして町田は読む。ロバが仲間に誘う場面で、「それならブレーメンに行こうじゃないか。お前さんは夜の歌が得意だろうから、一緒に街の音楽隊に入ろうよ。」と。

「年老いて居場所を無くし、死を待つだけの状態でこんな誘われ方をしたら、その時点で救われちゃうしその先何が起こってもハッピーエンドじゃん。泣けるしズルいよ」というのである。さらに、

「私が死を待つだけの孤独なおばあちゃんになったら、神林に誘いにきて欲しいな。「それならブレーメンに行こうじゃないか」って」

町田が落とした文庫本を神林が拾い、その神林に手を伸ばしながら町田が言うのを受けて、神林は「悲しいこと言うな」と言うのだが、「ふふふ。起こして」という町田に対し、神林は手を差し伸べてその手を握る。

引用し過ぎてしまったけど、これはこの作品を8巻まで読んできて一番感動したくだりかもしれないなと思った。

「それならブレーメンに行こうじゃないか」。反芻してしまう。

子供の頃にはわからなかったけれども、そう言う話だとわかってしまう、と言うかもうそう言う話だったんだと思ってしまっているのだが、これがわかると言うことは自分が歳をとったと言うことなんだなとも思うし、またそう言うことを女子高生たちの会話として描写するのは「ませ過ぎ」のような気もするが、それをまた見ている作者さんもまたある種の実感であるのかもしれないなとも思った。作者の施川ユウキさんは天竜川の下流の浜松出身で、今年49歳。なんだなとWikipediaを調べて思った。

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これは言われてみてなるほどと思ったが、日本人や他のアジア人にはもちろん自民族の性的魅力に溢れた女性(男性もだが)を描くイラストレーターや漫画家、絵師は山のようにいるわけだし、白人にも白人のセックスアッピールに溢れた女性像を描く人たちはたくさんいるけれども、黒人に黒人女性の性的魅力に溢れた絵を描く人というのは言われてみるとあまりよくわからない。「ブラックウォッシュ」というのは「ホワイトウォッシュ」の言い換えの文化概念だけど、弥助騒動でもそうだったが「サムライ」という魅力的なガワを借りてきて黒人にもそういう人はいたんだ!みたいな感じで、民族ないし人種独自の魅力を描こうとする人をあまりみない気がする。

「もはや黒人本人より日本人のほうが、黒人キャラを魅力的に描くのは上手くないか?みたいな意見を耳にするわけですよ/これ、シンプルに「描いてるお前自身が自分の絵で抜いてないから」に尽きると思ってんですね」

で、この指摘なのだが、「描いてるお前自身が自分の絵で抜いてないから」というのは露悪的な言い方ではあるけれども、本質を突いていると思う。つまり、そこに自分の欲望だとか理想だとか好きな気持ちだとか性癖だとかこういうのがいいという気持ちだとかが注ぎ込まれてない、溢れていないということであるわけである。

そこにはもちろんポリコレ的woke的な桎梏や制約があるからそれをやり切れていないということで、イデオロギーによるアートの抑圧の典型例ということになるのだとは思う。

しかし、そういう抑圧がもしなくても、うまくそういう表現ができないことはある、というかどういうものが良い絵かということで言えば、例えば「自分はその絵でシコれるか」、もっと穏当な言い方をすれば「絵に描いた美女に自分が恋することができるか」という話なのだと思う。考えてみるとそういう話は古来「ピグマリオン」をはじめとして江戸時代の説話にもあるし、芥川龍之介とかも書いてそうな感じである。

もちろん、そういう自己完結的な話を超えてそれが表現として多くの人に刺さるものになってこそではあるのだが、作者自身がそういう魅力というものについて自分にどう届くか、どう刺さるかを知らなければどんなにうまく書いてもAI絵のようなものになってしまうだろう。

こういう欲望を刺激するというのは例えば食欲でもそうで、いわゆる「シズル感のある絵」という言い方があるが、そういう絵が多くの人に受けるということでもある。食欲が刺激される絵というのは食欲を解放するわけだから、ついでに他の欲望も解放されがちで、そういうところにフェミニストが噛みついたりする例もあったりはするわけである。

これはもちろん絵だけではなくあらゆるジャンルでそうで、文章でも魅力的な文章というのは欲望に自覚的であることが多い。これは文章が芳醇であるということであって性的であるということでは必ずしもない。それを抑制する力とか、それを相対化する批評力とか、それをブラッシュアップするスタイリッシュさとか、いろいろあるけれども元にあるものが痩せていたらそれらもあまり意味をなさないだろう。

Twitterを見ていると特にオタク女子、腐女子の人たちのそういう会話が溢れていて、ちょっとどうかと思うことも多いのだが、男のそういう会話のようなカッコつけたところがない(というかSNSで本当に本音を爆発させてたらフェミに重爆撃を受けるだろう)ところが観察対象としては興味深いところはある。

というようなことを考えていた。

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少し書き出すと書きたいことを書き切る前にパワーも時間も無くなってきたのだが、今朝のNHKラジオのニュースで気になったことが二つあったので手短に書いておきたい。

https://www.asahi.com/articles/ASV2W6667V2WUHBI024M.html

一つはエプスタインファイルの関連でクリントン元大統領が議会に呼ばれて証言しているのだという。昨日はヒラリー元国務長官が証言していたが、大統領経験者が議会に呼ばれて証言するというのは史上初のことなのだそうだ。

この問題はネットでは盛んに論じられていたがいわゆるオールドメディアではほとんど取り上げられていなかったのだけど、流石に元大統領の召喚ということになると無視もできないとNHKも考えたのだろう。あるいはイランでの支局長拘束の失態から目をそらそうという意思もどこかにあるのかもしれないが。

この問題はなんというか欧米社会のさまざまな面に絡んでいて一言で論評するのは難しいのだが、主にヨーロッパの政治家や王族、アメリカではリベラル系、民主党系の人たちの名前が主に出てきているという点である。一つ思ったのは現在が共和党政権であることで、司法省が明らかにしている膨大な文書の一部は民主党関係者のものが多く出ているということがあるのではないかということだった。

トランプ大統領の名前も出てきているが、少なくとも深い関与を示すものはないようだし、民主党側には不満が燻っているようにも感じられる。次にアメリカが民主党政権になるのはいつのことかはわからないが、その時により共和党側に偏った形で文書が公開されるかもしれず、そうなるとまたこの話は再燃することになるかもしれない。

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もう一つは、「マンガワン」で連載されていた「常人仮面」の原作者が性加害で訴えられ、有罪判決を受け、また損害賠償請求でも敗訴になっていたことが明らかにされた件である。

https://kai-you.net/article/94757

https://x.com/turu_yosi/status/2026921152086712828

これについて、作画家の方がTwitterでコメントをされているのだが、現在の分業体制でのマンガ制作ということに関しては時々起こる残念な事態である。「常人仮面」は一応完結していて最終12巻が発売されたばかりのようだが、今後回収ということになるようだ。

これについて思い出されるのはジャンプに連載されていた「アクタージュ」で、好きな作品だっただけに同様な経緯を辿って連載打ち切り・単行本回収になったのは読者としては非常にダメージがあった。作画家の宇佐崎しろさんも完全に貰い事故でお気の毒だったのだが、その後もなかなか作品に恵まれなかったけれども今ではようやく「魔男のイチ」でヒットを飛ばしている。鶴吉さんもお気の毒としか言いようがないが,マンガの世界から離れることなく新しい作品に挑んでいってもらえると一マンガファンとしては嬉しいとは思う。

人間の性をめぐる世界というのは本当に多様でいろいろあるなと思うのだが、これはつまりは人間という存在が抱えるある種の業のようなものであるから、人間という存在がこの世にある限り、なくなるものではないのだよなとも思う。

京都大学はなぜ「近く」に昼飯を食べに行ける店が多いのか:「扇状地の都」の優位性

Posted at 26/02/27

2月27日(金)曇り

昨日は雨上がりだったので竹林の作業はどうかと思い午前中少しだけ見に行ったのだがやればやれそうな感じだったので少しだけやり、午後は時間をとってそれなりに進めたら一段落という感じのところまでは進められた。週末は別のことで忙しいので後は少し様子を見て気分転換程度に作業し、週明けからまた少しずつ進めようかなと思う。

昼前に郵便局に出かけて切手を買って郵便を出し、その後で少し離れたスーパーまで走ってお昼の買い物などした。午後は外作業のあと入浴して少し休んだりしていた。

夜は比較的早めにうたた寝は切り上げられたが仰向けに寝ていると肩が痛い状態になり、入浴して痛みを和らげてから寝たが、それでも4時過ぎには目が覚めた。いろいろ考えて脚湯をしてみたらかなり楽になったので、やはり疲れているということ自体は本当だなと思う。なるべく無理をしないで過ごせると良いのだが、今日は母を松本の病院に連れて行くので一定時間の運転はすることにはなる。まあぼちぼちやろう。

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https://x.com/konoy541/status/2026554094220095730

https://x.com/lang_zhong36418/status/2026569283334287360

京都大学と東京大学では「近くにある飲食店の数が全然違う」という話題がツイッターで盛り上がっていて、京都大学のある百万遍と東京大学のある駒場・本郷ではそれほど違うのか、そして「近く」とはどの範囲のことか、という話に発展していき、最終的に「東大生は徒歩と電車が交通手段だが京大生は自転車が中心」という話になり、それは京都は基本的に広い範囲で平坦だが、東京は本郷も駒場も台地上にあり、隣町にいくには一度谷を降ってまた上る、みたいな昇降運動が必要だ、という違いがあるから、という話になっていって、これは面白いなと思った。

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この本は以前も取り上げたことがある(まだ読みかけで止まっている)が、京都は鴨川などが作った扇状地の地形の上にあり、それゆえに北から南に向かって緩い傾斜はあるのだが、東西にはほぼ起伏がないという地形で、自転車で移動するのに非常に適した街だ、ということが、「昼飯を食べに行ける範囲の違い」に影響してくるというのは面白いと思った。

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一方東京は隅田川以西は台地と谷が交互に現れる地形で、東京の地名に渋谷・市ヶ谷・鶯谷・日比谷その他、谷のつく地名が多いこと、暗闇坂や道玄坂など坂がついたり、上野と下谷とか高低差が表現された地名が多いことなどに表れている。隅田川以東は荒川や旧利根川などが作った複合的な三角州地形で、低湿地になっているが、隅田川以西はいわゆる山の手で、起伏が多いわけである。本郷や駒場の東大キャンパスは丘の上なので、渋谷や下北沢など歩いても20分くらいしかかからないが、帰ってくるときは上りになるのでよほどの物好き(私など)以外はそこを歩こうとかは思わないだろうなと思う。

扇状地は中学の地理でやるように水捌けがよく、扇端部や扇央部などの場所によって水の得やすさは違うが、井戸を深掘りすればなんとかなる範囲だし、江戸のように遥か彼方から上水を弾かなくても市民の水は賄えたわけで、その意味でも王城の地として優位性があったわけである。

一方東京下町や大阪、広島などの三角州には港を中心に都市が発達しやすいのは平地であるという優位性があるからだが、三角州は扇状地と違い低湿地になりやすく、また洪水などの水害も多い。また地盤も弱く、地下水の汲み上げなどで地盤沈下も起きやすいわけである。

https://x.com/rUyaCVtIiRxgC9M/status/2026706870854144224

だからこうした都市は地下鉄よりも路面電車が発達しやすいという話があり、この辺もちゃんと整理しないと一般論としては言いにくいが、三角州の都市は地下を掘るのに障害が生じやすいということはあるだろうと思う。

東京や大阪がそれでも大都市として発展したのは東京には上に書いたように山手の丘陵地があり、大阪の場合は上町台地があったことが大きいだろう。江戸城も大坂城も平城ではなく平山城であるのは、その地形を利用しているからなわけである。

こういうのは考えているといろいろ面白く、その辺を深掘りしてくれる「ブラタモリ」が人気なのもわかるよなと思った。

今日は母を病院に連れて行くのでこの辺で。

イランでのNHK支局長拘束と日イ関係/「イスラムのジャーナリズム観」と「イランとイスラムの微妙な関係」/本当の「中道」と国民民主党

Posted at 26/02/26

2月26日(木)曇り

昨日はほぼ一日雨で、屋外作業ができなかったので少しゆっくりできた面もあったが、家の中のこともしなければいけないことは結構あって、マンガ雑誌や単行本を作業場に運んだり風呂掃除をしたり。午前中に会計関係を少しやって銀行と郵便局に行き、クリーニングを出して、書店に行って「SHIORI EXPERIENCE」の25巻と「ビッグガンガン」の3号を買って、イオンに行ってATMでお金を入金し、パンを買って帰った。午後は本を読んだり出納帳をつけたり。実家や作業場の片付けをもう少ししたかったがあまり時間はなかった。

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https://digital.asahi.com/articles/ASV2T11PGV2TUHBI02TM.html

イランで1月20日ごろNHKのテヘラン支局長が拘束され、収容所に入れられたというニュースがあった。これはイランの反政府デモが激しい時期であり、おそらくはその取材等と関係することなのだろうと思うが、西側目でディアで数少ないテヘラン支局を持つNHKがなぜこのデモをあまり報じないのか、ということは当時から言われていたので、そういうこともおそらくこの高速と関係はあるのではないかとは思う。

https://www.meij.or.jp/kawara/2025_125.html

今回の一連のデモの中で拘束されたジャーナリストは少なくとも7人いるそうだが、外国人記者の拘束は他に報告されていないとのこと。よく知られているように日本とイランの関係は革命後も比較的良好で、そのため1980年代以降多くのイラン人が来日していたことは当時のことを覚えている人なら記憶にあるだろうと思う。ダルビッシュ投手をはじめとして、スポーツ界でのイラン系の活躍もある。

ここ数年はアメリカのイラン包囲網が厳しくなってきたこともあり、以前ほどの交流の深さは無くなってきたし、イランの革命防衛隊の活動の実態やヒズボラやハマスなどへの援助による中東においてのテロリストの後ろ盾として動いてきたことが報道される中で、我が国においてもイランに対する見方は厳しくなってきたし、昨年のイスラエルとの12日間戦争と全国的な反政府デモ以降、イラン当局もかなり追い詰められてきたことは確かなので、苦し紛れの一手である気はするのだが、それだけに予断は許さず、無事に解放されることを祈るしかない感じではある。日本もイラン側と交渉はしていると思うが、どういう方向に話が進むのかはそう簡単ではないなとは思う。

https://note.com/cafebaghdad/n/n117f10aacb3b

こちらは執筆されているのは15年前の日本メディアのテヘラン支局長経験者の方とのことだが、イラン当局は「世界に報道していい内容」と「報道を許さない内容」を峻別していて、事前通告した内容の取材しか許さず、そこから外れると容赦なく拘束する、とのこと。平穏に見えている時が危ないとのことだが、今回はまさに世論が沸き立っていた時期であり、平常時とは比べ物にならない緊張感があっただろう。拘束の事情がわからないので個別具体的な行動に対してなのか、あるいはそうした根拠のない拘束なのか、もし後者なら政治的なものを狙っていることになるけれども、今まで報道が出てはいないが政府の発言を見るとイランとの交渉もしているし本人や家族との連絡も取れているとのことなので、そうした政治的な交渉材料としての拘束という可能性がかなり大きいように思うし、そうなるとおそらくは日本政府に対して何か要求がある、例えばアメリカとこのように交渉せよ、みたいな要求がある可能性もあるのかもしれない。

当然ながら独裁国家において「報道の自由」というものが制限されているのは当然なのだけど、それは中国やロシアにおける報道の制限とはまた違う様相があるのではないかと思う。

これはGoogleのAIによるまとめだが、イスラムのジャーナリズム観は

「イスラムにおけるジャーナリズム観は、単に事実を客観的に伝えるという西洋的な「事実報道」の枠を超え、「社会の改善」「真実の追求」「正義の推進」を重視する独自の倫理観に基づいています。メディアは、アッラーの教えに基づき、良いことを広め、悪を禁ずる(アマル・マアルーフ・ナヒ・ムンカル)ための手段として認識されています。」

「イスラムのメディア専門家は、完全な客観性は神話であると批判することがあります。その代わり、人間社会における「正義」や「福祉」を基準とした価値ある報道(価値関与型)を重視する傾向があります。」

とのことである。これは日本の、すなわち左派リベラルのジャーナリズム観に似ている面があるが、要は客観性よりもある視点からの社会正義の実現のための手段と捉えているということだろうと思う。「エビデンス?ねえよそんなもん」と放言した朝日新聞記者の言葉よりはマシのようには思うが。

https://asiandocs.co.jp/contents/45

また上記は「我らはジャーナリスト 報道の不自由な国イラン」という映画の説明で、主にアフマディネジャド大統領時代の報道の困難さについての話が出てくるが、

「イラン人ジャーナリストたちが、口々に証言します。「イランでのジャーナリズムは、牢の中のジャーナリズム」。「イランでのジャーナリズムは、狼と踊るようなもの」。「イランでのジャーナリズムは、猫から逃げる鼠」。「イランでのジャーナリズムは、地雷原での散歩」。「俺たちは剃刀の刃を渡る」。イランでの報道の仕事が、いかに危険で理不尽なものであるかを彼らの言葉が物語っています。」

とのことである。

*

https://gendai.media/articles/-/130565

https://gendai.media/articles/-/130571

イランの実態は上の二つの記事を読むとかなり蒙を啓かれる感じがあるのだが、イスラムは外来宗教であるという意識が強くなってきているというのは他の記事を読んでいても感じるところだった。そうなると、「イスラム共和国」政府というのはイラン国民の上に乗っかったある種の神輿にすぎず、それを維持するためにさまざまな弾圧手段をとっているのだなと感じられる。ある意味イランは非常に近代的な国だと感じられるし、その上に宗教的な政府が乗っかるとどうなるかという実験的な国家であるようにも見える。

そういう意味では今回の支局長の拘束は、「イスラムの論理」や「イスラムのジャーナリズム観」に基づいた拘束というものではなく、「イランイスラム共和国という独裁国家の意向」によって行われたものだと考えるべきだなと思う。

これはある意味日本にとってはイランからの「国家間関係の悪化」を告げるシグナルとも取れるが、こういう場面では間接的に中国やロシアがお為ごかしに口を聞いてくる可能性もあるなという気もして、その辺のところはうまくやってもらいたいなと思う感じはある。

私とイラン人との具体的な関わりは学生時代に大韓航空でソウル・カタール・ジッダ経由の南回りでヨーロッパに行ったときに帰国便の時に隣に座ったおっさんがイラン人でいかにも金持ち然としていてエルメスとかグッチとかそういうブランド品はいいぞ!みたいな話をしていた、ということしかないのだが、イランのパスポートを見せたのでおそらくイラン在住だったのだと思うが、イスラム共和国を名乗る清貧イメージのイランにこんな成金ぽいおっさんがいるのか、本当は亡命者だったんじゃないかなどと思っていたのだけど、上のレポートを読むとそういう人もいるのかも、という気もしてきた。面白そうな国であることは確かなのだが、記者の方は1日も早く解放されることを期待したい。

***

今の日本において本当の中道とはどのポジションなのだろうか、と考えていたのだが、公明党と立憲民主党が合体してできて「中道改革連合」というのはやはり国民全体の中では左寄りすぎるように思ったからである。

少なくとも「左派」と「リベラル」の間が「中道」ということはないだろうし、参加者としても「保守」と「左翼リベラル」の間が「中道」だ、という意識で参加したのだろうと思う。1970年代後半の「保革伯仲」時代に、中道政党と言われたのは公明党と民社党だったと記憶しているし、それに社会党を加えた「社公民三党」というのが自民党に変わる連立の枠組みとして意識されていたと思う。当時はまだ社会党の勢力が強かったし、社会党内部でも構造改革派と言われる党内右派もいたが、基本的に左派が強かったので、中道勢力というのはあまりないというのが実態だっただろう。

90年代の政治改革の時代に細川連立政権などを経て「中道」に見える「改革」の諸政党が出てきて、それが日本新党や新政党、新進党などであったわけだが、結局は民主党系の政党に収斂していき、安全保障に関しては曖昧な立場の政党が自民党と対峙する形になった。

民主党は立憲民主党と国民民主党に再分裂したため、立憲民主党の左派色がかなり強まり、国民民主党は民社党系の安全保障はリアリズムで他の政策は比較的リベラルという方向になった。民社党時代は労組組織も同盟で社会党系の総評とは別団体だったが、今は連合に統一されているのでその辺りの縛りが国民民主党をどっちつかずのものにしている。

日本の有権者の現在の実態を見ていると、本当の中道というのは保守と(左派でない)リベラルの間であり、大体国民民主党のあたりが中道なのだと思う。安全保障政策的には現実的で自衛隊容認と憲法九条改正は基本的には国民の多数の支持を得ていると思われるので、その意味ではその辺りが中道だろう。また、その他の政策に関しては現役世代の手取りを増やすという労働者重視の政策をきちんと打ち出している点でも国民の支持はあると思われる。

ただ、その他の政策を見ると大丈夫かと思われるような左派リベラル政策も時に見られ、ちょっと迷走している感もなくはない。国民民主党ははっきりと男性の方が支持者が多い政党だと思うのだが、それゆえに女性の支持を得ようと女性候補の擁立に力を入れているように見えるのだけど、多くの候補者が問題を起こしたりトラブルになっていることである。自民党自体が今は女性候補の方が縁故や官僚経験のない場合には立候補しやすい状況になっているくらい女性候補は増えているのだが、国民民主党が慌ててそれに乗ることはないと思う。しっかりした男性候補を立てて行った方がむしろ結果的に良くなるのではないかという気はする。

この辺りは国民民主党の自己認識と国民からの期待の間に乖離があるように思われるので、その辺はなるべく国民の期待に合わせて行った方がいいように思われる。

現在の日本で望ましい二大政党は保守政党と中道リベラル(左派でない)政党によるものだと思われるので、国民民主党がそれを実現できるようになることを期待はしている。


「今はもうAIしか論文を読まない」と「AIは信用できるか」/「コスパ意識」と「教養の意味」/「人の話を聞くこと」と「話の面白さ・わかりやすさ」

Posted at 26/02/25

2月25日(水)雨

今朝は朝から雨が降っていて、気温はそんなに低くない。5時に起きたがその時の気温は10度を超えていた。今は8.6度なのでむしろ下がっているのだが、天気図を見ると前線が通過したということなのかなと思う。前線は停滞前線なのだが、この時期にこんなものが出るということはそんなに珍しくはないのだろうか。

昨日は午前中少し畑で竹を切って入浴してから銀行やスーパーに出かけ、午後は昼食を食べてからまた裏の畑で竹を切っていたのだが、だいぶ見通しが立ってきたので少し安心した感がある。見通しが立ってくるとやる気も出てくるのだが、今日はあいにくの雨で、まあここのところ忙しかったから一休みしろということかなと思う。家の中の仕事とかは結構たくさんあるのだが。

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社会や政治絡みのことで書きたいことが今日はないなあと思いながらTwitterを見ていたのだが、印象に残ったものについて少し書いてみたい。

https://x.com/TJO_datasci/status/2026168795342192725

「コンピュータサイエンスに三角関数は不要か否かという議論がバズっているのを見かけて、「〇〇は無駄だから勉強しなくて良い」という口実で若い人たちが勉強する量を減らそうとする行為自体が浅ましいなと思った。若くて脳が柔軟なうちに沢山勉強して身に付けることの重要さを理解していない議論かと」

若者のコスパ志向はかなり極端に進んでいる感じはする。ただいつの時代でも、そんなに無駄なことを好む人たちはいないわけで、「教養」というバックグラウンドの形成の意味に自覚的なのは経験を積んだ大人の方であり、信用できる大人に感化ないし薫陶・影響を受けてそのように考える一部の若者が深く幅広い実力を身につける、ということが繰り返されてきたのだと思う。

そういう意味では国立大学で5教科を課すことなどが極端に走らない歯止めになっていると思うし、コンピュータサイエンスにおいても今現在必要がなくてもそういう分野を踏まえた新しいジャンルが出てくることなどは日常茶飯事なので、数学や物理などにおいても基本的な教養レベル、そしてその基礎になる高校レベルの内容は全て身につけておいて損はない。

こういうIT技術やAI技術が進展していく過渡期の現在において、「教養」とか「ものを知る」ということの価値は等閑にされがちなのだけど、立ち止まって振り返り、自分自身を検証するときに、そうした教養こそがそれを可能にするということがつまづいたことのない人にはわかりにくいのだろうなと思う。

左翼リベラルの頭のいい、教養もあるはずの人たちが、特定の固定化された教義や「謝ったら破滅だ」という意識に囚われて自分を振り返ることができないでいるのは見ていて痛々しいし気の毒だとは思うのだが、教養を踏まえた上で他者を批判するのと自分の知っている教義だけで相手を攻撃するのとでは自分自身に返ってくるものが違う。寂しい死に方をしたくなければ幅広い教養を持った方が良い死に方ができるような気はする。

https://x.com/Takenoko1080/status/2026214021435900414

「音楽教室から出てきたお母さんが息子くんに「ピアノを弾く弾かないという話ではなく、まず人の話を聞くという姿勢がなってなさすぎる。人から習うということは人の話を聞くということ。これが出来ないのなら習い事の意味はないので改善しないようなら習い事を全てやめる」とお説教をしていてその言葉にとても感銘を受けたので、いつか部下に説教する時が来たら丸パクリしようと思い立ち、ここにメモする。」

こういう「コスパ意識」というものは「人の話を聞くのは無駄」という子供っぽい意識とも重なる部分がある気がする。「人から習うということは人の話を聞くこと」というのはまさにその通りで、私なども子供の頃はかなりそれが苦手だったからこの子供のことを笑えないなと思う。

ただ、私は人の話を聞くのが苦手だったから、いつも「もっと面白くわかりやすく話してくれたらもっと聞く気がするのに」と思っていた。だから自分が話をするときや文章を書くときにはなるべく面白くわかりやすくしよう、というのが習い性になっているところはある。もちろんわざと曖昧にわかりにくくすることもあるのだけど、それはまあそういう作戦の時に限る。これは多分、私だけでなく話が面白い人、文章が面白い人の一つの特徴ではないかと思う。人の話がつまらないから自分は面白くしようと思うわけである。大学の先生などには時々そういう人がいて、なんか同類だなと感じる時がある。

人の話を聞いたり本を読んだりするのは基本的にめんどくささと無縁ではない。読んだら面白いと分かっていても面倒な時はある。だから、コスパ意識やめんどくささに負けないくらいの面白さは持とうと私などは心がけてはいるわけである。

https://x.com/koro485/status/2026371493668507810

「様々なジャーナルで、それまでずっとフラットトレンドだった論文ダウンロード数が2024年9月ごろから激減しているみたいで、要するにAIしか論文読まなくなってるっぽいな。」

そして極め付けはこれである。学者・研究者というのは論文を書くだけでなく読むのが主要な仕事の一つであるわけだけど、その学者ですらAIに論文を読ませて自分では読まなくなっている、というわけである。この方の他のポストも読んでいると「よくないAIの使い方」にもいろいろ言及しているけれども、自分にとってあまり身近でない分野の論文をAIにまとめさせて概要を掴む、という程度ならまあいいかとは思うが、少なくともそれを自分の論文で言及するようなことがあれば原文をあたるべきなのは当然だろう。

自分の考えの先行研究がないかというようなことを調べるにはかなり有効だとは思うし昔はそこで相当労力を使っていたからそこはありがたいとは思うのだが、「AIしか論文を読まない」というのはかなり笑ってしまったけれども、下手をしたらそのうち「AIしか論文を書かない」にもなりかねないわけで、それはどう考えても人類の進歩にとっては弊害なのではないかとは思う。

こうなってしまうのは論文をいちいち読むのは「コスパが良くない」という意識だろう。私も若い頃は新しい分野について知ろうと思ったときに、歯がたたなそうな専門的なものではなく、講談社現代新書などのその分野の概説書を読むことが多く、それだけで済ませてしまうことも多々あった。

こういうのも基本的にはAIに論文を読ませて自分はそのまとめしか読まない、というのと一脈通じるところがあるから自分もそんなに偉そうなことは言えないのだけど、まあ自分がAIにそんなに頼らないのはAI(やそのまとめ)がいまいち信用できないからで、そこは今のところコスパに優先する部分だなとは思う。

AIが言っている営業時間を信用して行ってみたら閉まっていた、みたいなことは実際よくあるし、その情報の誤りに責任を持つ人がいないというのもAI信頼できない根本なのだよなと思う。人間の書いた文章なら苦情を言う相手もいるが、AIだとそれを信じた方が間抜けだった、と言うことにしかならないわけだし。

「AIは信用できる」と言う仮定に基づいて行動するのはおそらくコスパが良く面倒も少ないことだとは思うが、それが自分をどこに連れていくかと考えるとちょっと怖いなと思ってしまうのだけど、そう言う人は今ではもう少数派なのだろうか。そうでもないのだろうか。

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