石神賢介「おどろきの「クルド人問題」」を読んでいる:「クルド人のこと、僕たち、知らない人に話しちゃいけない、って言われているんで」/「忘却バッテリー」久々の更新

Posted at 25/09/04

9月4日(木)曇り

今朝は朝から久しぶりに天気が悪い。あまり直射日光が強くないのはいいのだが、なんとなく血圧が低いというか、集中した感じが出てこなくて時間ばかりが経ってしまった。

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昨日は共産党の市議に焚書されそうになって紀伊国屋書店がツイートを謝罪したことで波紋を呼んだ石神賢介「おどろきのクルド人問題」(新潮新書、2025)が届いたので読み始めた。石神さんはこのレポートの話を受けるまではこの問題にほとんど関わりのない人だったようで、さまざまな取材のアプローチをしてこの本を書いたのだなというのがよくわかる。そしてそれに協力的だったのは、地元の川口の司会議員の人や、この問題にずっと取り組んできている石井孝明さんなどで、地元のクルド人の人たちやトルコ大使館などはかなり非協力的だったというのが今まで読んだ印象である。

書いてあることは石神さんが取材した印象や、実際に起こった事件など、クルド人たちの解体業のヤードのある地域や、もともと外国人が多い地域でのクルド人の多い店での話などが出てきて、だんだん深いところに入ってきた感じがある。

この本以外のところで読んだのだが、この辺りの地域は市街化調整区域になっていて、開発が制限されているために家屋や商店を建てることができないのだという。農業をするのでなければ荒地になってしまうわけだが、そういう土地にも所有者はいて、それなりに固定資産税はかかるわけだから、クルド人の解体業者らに土地を貸すということはある意味やむを得ない感じもあるようには思った。

住民たちに取材した反応は、困ってはいるけど仕方がないと思っている、ただ女性たちは外に出なくなった、みたいな話で、小学生に話を聞いても特に何もないという感じだったのが、最後に「クルド人のこと、僕たち、知らない人に話しちゃいけない、って言われているんで」と言ったといい、つまりはこういう雰囲気が地域を支配しているのかなという印象はあった。

クルドカー(解体したものを過積載している大型トラック)に追いかけられたという話も、基本的には石神さんが無許可で撮影したことに腹を立ててのことだということで、こちらに非があるということは石神さん本人も認めて書いてはいる。事実を書いて、それは彼らの非ではない、という書き方になっているが、多分そういう書き方が「差別を助長する」という批判につなげるような人たちもいるのだろうなとは思った。

まだ最後まで読んでいないが(第3章86ページまで、全体で190ページ)、私自身としては特に問題を感じるようなところはなく、事実と取材した印象について書いているということだし、彼らの風貌の魁夷さで日本人の女性が怖がるのは仕方がないが彼らが悪いわけではない、というような書き方である。この本をヘイトと非難し書店に取り扱わないように要求するというのは表現の自由とか国民の知る権利から考えて問題が多いし、この本で取り上げられている埼玉医療センターでの100人規模の暴動事件にしても当初はどこも報道しなかったというのはどう考えても異常だと思う。

朝日新聞はそれについて「差別を助長する恐れがあるから報道しなかった」としているそうだが、報道機関はまずは事実を報道するのが使命であり、それをどう受け取るかは受け取る側の判断に任せるべきなはずで、その情報をコントロールすることで世論のあり方を変えようとするのは世論操作であり、彼らがマスゴミと言われ信頼されなくなっている大きな原因であることは間違いない。

大体今の時代に、どんなに情報をコントロールしようとしてもネットを通じてこうした情報はあっという間に拡散していくわけで、コントロールなどは無理なのである。そしてネットの報道はマスコミ側が導こうとしているのと反対の方向にエスカレートしていくことの方が多いわけだから、素直にちゃんと取材して報道した方が彼らにとってよりマシな結果になるのではないかと思う。

問題は、年齢の高い層の中には「朝日新聞でもNHKでもそんなことは報道していなかったから、そんな事件の存在そのものがデマだ」と考える人たちもいるということで、国民の間の情報ギャップがさらに広がってしまうということにある。石神さんのこのレポートは労作だと思うし、これからの外国人問題を考える上でおそらくは一級のレポートの一つになると思われるので、なるべく多くの人が読んだ方が良いと思った。

それにしても、地域の問題の困ったことを取り上げて行政にねじ込むのが常の共産党の市議がそうした苦情を無視して外国人の側に立つのはどういうことなのか、というのはまた別の問題としてあるわけだ。

また違う論点だが、市街化調整区域という強制的に開発をさせない仕組みも、制定された当初は乱開発を防ぐという大義名分はあったとは思うが、結果的に地主の権利を制限し、グレーの業者に土地を貸すしか現金収入に繋げられないなど、返って問題を助長している面もあるようには思った。こうした制度も今後見直す必要はあるのではないかと思われる。

正直論点が多すぎて一冊の本の感想として書くにはかなりハードな感じはあるが、実際の社会問題というのはまあこんなものなんだろうなとは思った。

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今朝はジャンププラスで久しぶりに「忘却バッテリー」の更新があった。前回の更新が6月26日なので、2ヶ月と少しぶりの更新ということになる。相変わらず面白い。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094910082445808

小手指高校としては一年生投手の瀧の球が打たれているのは氷川側に対策されているからだ、ということがはっきりしない状態で連載が中断されていたのだが、今回はそれを踏まえた上での瀧の投球ということになり、なるほどという展開になった。「褒め専」という言葉が出てきたのは笑ったが、実力のある人に褒められると嬉しい、というのはよくわかるので先に希望が持てる展開になってよかったなと思う。

毎週更新されている「気になる来見さん」もとてもよかったし、「姫死んじゃった!」も思いがけない展開になっていて、その日の更新で面白かった作品を二つ挙げるアンケートにこの2作品をあげた。まあどう考えてもほとんどの人は「忘却バッテリー」に投票しているだろうから、というのもあったのだが。

しかしその後で読んだ「おわんちゃんの波瀾万丈麺」という読み切りが面白かった。なんでも過剰にする演出が得意な作者さんで、以前も「ジーンズを脱がせて」などの作品があったが、こちらは筋肉を鍛えすぎて脱げなくなったジーンズをどう脱がせるか、というドタバタである。おわんちゃんの方はとにかくラーメンを食べてもらいたいラーメン屋のおわんちゃんの店にドラゴンやら異世界人やら宇宙人やらがやってくるというドタバタなのだけど、こういう過剰さを描かせると上手いなと改めて思った。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094910082445714

ジャンププラスも最近、曜日によっては読むものがない日もあるのだけど、今日は充実しすぎていた印象。バランスが取れないかなと思うがまあそういうわけにもいかないのだろうなとは思う。


サントリーは「新自由主義的利益」より「ノレン」を守った/総理大臣に「自分らしさ(石破らしさ)」は必要なのか

Posted at 25/09/03

9月3日(水)晴れ

昨日もそうだったが、今朝も朝は割と涼しく感じるのだけど、気温はまだ高く今日の最低気温は22.1度。8月中はこの気温ならいられないくらいの暑さだったのだが、昨日も今朝も凌ぎやすいのは、おそらくは湿度が下がっているからなのだと思う。ということは逆に言えば気がつかないうちに乾燥しているということなので、水を飲むことに注意すべきなのはむしろこれからかもしれない。

今日は午前中出かけるので短めに。

昨日のニュース、印象に残ったものは二つあった。

https://www.sankei.com/article/20250902-ARFIK5HGUNPIRAULJGD267LVHY/


サントリーの新浪会長が大麻疑惑で事実上解任されたとのニュース。財界トップにあるまじき疑惑だというのは驚きだが、代表的な「新自由主義的経営者」であった新浪氏の疑惑としてはむしろなるほどな、という感じではある。つまりはアメリカ等に蔓延している薬物汚染はある意味新自由主義と親和性があったように思うので、その日本のトップの1人がそれに関わりがあったかもしれないというのは納得感はないわけではない。

そして「疑惑」の段階での経営の最高責任者の更迭というのは、BtoC、つまり消費者相手の企業であり、またより強い力を持つ創業家が存在する同族企業のサントリーならでは、ということではあるだろう。酒造メーカーの代表が薬物疑惑ではシャレにならない。彼らは結局、彼を経営者にしておくことの利益よりも、自らの「ノレン」を守ることを優先したわけである。

トランプ政権による経済の激震は続いているが、彼のやっていることは一言で言えば「新自由主義を終わらせる」ことであり、アメリカ以外の国々でもそうした動きはそれなりに強い。サントリーもまた、「新自由主義的利益拡大策」の魅力より「ノレンといういわば前近代的な価値」を守る方向にシフトしたのだと考えられる。そういう意味で、新自由主義の終焉を告げる出来事の一つだったのではないかと思う。

今後は、新自由主義に先導されてきた多文化主義や多様性重視思想などがさらに後退し、伝統的諸価値の復活がまた起こってくる(それだけではないだろうが)ことが考えられるから、より大きな変化の一環として今回の事態も受け止めた方がいいだろうと思う。

もう一つは石破首相の「参院選の総括」についての自民党両院議員総会での演説である。

https://www.sankei.com/article/20250902-G5KEYUOKABGTXNUXESHGA66HDQ/

この演説の中で、一番目を引いたように思われたのが下の一節である。

「ある意味で『石破らしさ』というものを失ってしまったということだと思っております。それは、法律案や予算案を成立させるために、それは本当に現場の方々に大変なご努力をいただいた。でもそれが、何をやりたいのかわからないと。そういうような厳しいご批判になり、多くの同志を失うことになりました。私自身、常に常に悩んでまいりました。」

「個性」重視の掛け声は教育界においていまだに強いけれども、さて総理大臣にとっての「石破らしさ」、「自分らしさ」とは一体なんだろうか。

政治というものは、一国の状況に鑑み、その抱える問題、なかんずく国民に広く影響を与える経済問題や安全保障問題、治安問題などの解決に尽力するのがその役割だろう。経済運営がうまく行った政権は支持・評価され、うまくいかなかった政権は独自色を発揮する前に沈没するのが普通である。

その経済問題において、石破内閣は失態を繰り返している。昨年の衆院選から今年の参院選にかけて、躍進した政党を考えてみればわかるのだが、最も支持を獲得した政党のひとつ、国民民主党の主張は「現役世代の手取りを増やす」ことであった。しかしそれを財務官僚べったりの党内人事を行なったために十分な成果をあげられず、自民党の経済運営に期待していた若い世代の多くが国民民主党支持に回った。

一方で、治安問題や文化問題、それが外国人問題と結び付けられているわけだけれども、それにおいても有効な施策を打ち出せず、みすみす参政党多くの議席を奪われた。特に30代以下の若い世代、つまり今後の日本を担う世代の自民党離れは目を覆うべきものがあり、自民党執行部は世論調査で内閣支持が高いことを続投の縁にしているけれども、若い世代を見たらそんな悠長なことは言っていられないことは明白だろう。

政治において「自分らしさ」というのは、十分な議席を確保し、また政治的に安定的な支持を取り付けるための経済運営をそれなりに軌道に乗せてから独自色を加えていくべきもので、少数与党に転落したのに「自分のやりたいことをやる」というようなものではない。

あるいはトランプのように立候補の段階から「こういうことをやる」ということを強く打ち出した上でその政策を実行していくなら説得力もあるが、石破首相はそういうことも十分に打ちたせていたとは言えないだろう。それは議院内閣制の日本と大統領制のアメリカの根本的な相違に基づくものでもあるのだが、「アベノミクス」を唱えて大勝利を収め、憲政史上最長の在任期間を実現した安倍首相を「ライバル視」している石破首相は、安倍さんと同程度のことをやらない限り評価は難しい。それができないのに安倍政権を批判してきたのだとしたら、文字通りの口だけ番長である。

いずれにしても今の石破政権に評価できる要素は乏しいため、経済運営の安定のためにも速やかに次の政権を成立させることが望まれる。選挙に負けて責任を取らない首相は周囲から責任を取らされる、という憲政のルールを遵守した形で前例を作ることは必要だということもあるが、新自由主義時代からの転換点にある世界の中で、日本をどうするかのビジョンが見えてくるリーダーが次の首相になるべきだろうとは思う。

「紀伊国屋書店によるクルド問題の本のおすすめの削除」と「本質的虚無から逃避しようとする知識人」/ジーンズを買いに/ジャンプ作品の入れ替わり

Posted at 25/09/02

9月2日(火)晴れ

ジーンズの膝が切れて穴が空いてきたので、午後新しいのを買いに隣町のユニクロまで行った。昨日はだいたい西部邁「知性の構造」の読んだところをノートにまとめようとしていたのだけど、ジーンズの破れはだんだん大きくなるし、靴下も穴が空いてはけなくなったのが多くなったこともあり、午前中にお昼を買いに行くついでにしまむらに行って靴下は買ったのだが、ジーンズはユニクロの方が履きやすいなと思ったので、後で出かけようと思っていた。

「ロッキング・オン・ジャパン」の10月号、どうにかして手に入らないかと色々調べていたら丸善ジュンク堂のサイトで在庫がある感じだったので、今度の日曜に東京に帰った時に受け取れたらいいなと思って店舗受け取りにしたのだが、いつ入荷するかも分からないしちょっと使いにくいなと思った。また、honto withのアプリが使えたときには簡単にできた手続きがうまくいかなくて、何度もパスワードを入れさせられたりし、ちょっと参ったなと思った。使いやすいサービスができてサービス終了するならいいのだが、便利に使っていたアプリがただ使えなくなるのはどうにも困った話だなと思う。

そんなことをやっている間に近くの高校の生徒が下校する声が聞こえてきたので早く出かけないと帰宅ラッシュに巻き込まれるなと思って出かけて、隣町のユニクロに行った。今履いているのと同じタイプ同じサイズのジーンズを買って、会計の時にiPhoneで会員証を読むのだが、また例によって置きっぱなしにしてしまうという事案が発生。裾直し中で隣のスーパーで買い物して車に戻ったときに気づいたのですぐ回収に行けたが、毎回これをやる。会員証を読んだらすぐ仕舞えばいいのだよな、と今更ながら。

夜は昼に買ったものの残りを食べて早めに休んだのだが、12時過ぎに目が覚めてしまい、眠れない。仕方ないので火曜日更新のジャンププラスの作品を読み、入浴したり洗い物をしたりして少しは眠くなってきたので2時過ぎにもう一度寝床に入ったのだが、結局あまり深く眠れないまま5時前に起き出した。

たまには少し作業をしようと思って家の前の庭の草を刈ったのだが、箕一つ分だけ刈ろうと思ったらあっという間にいっぱいになり、一度裏に捨てに行ってもう一つ分刈った。少しはきれいになったかなと思う。それから車で出かけてカフェラテだけ買って帰ってきた。

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https://x.com/Kino_Honmachi/status/1962035462845190317

紀伊国屋書店の本町店のアカウントが埼玉県の共産党の市議の抗議を受け入れて、石神賢介「おどろきのクルド人問題」(新潮新書、2025)のおすすめツイートを削除した。

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これに関連し、さまざまな人々が紀伊国屋書店を非難するツイートをしていたので、これはこのまま「トランスジェンダーになりたい少女たち」の時のように書店で扱われなくなったり場合によってはAmazonでも買えなくなったりする可能性もあるのではないかと思い、急いでAmazonで購入した。するとサイトでは「ベストセラー1位」になっていて、なるほど「こういう人たち」が本を攻撃するようなことが起こると、「ふつうの人たち」は「彼らが攻撃しているからいい本なのだろう」と思って本を購入する、という現象が起こるんだな、と思った。

こういうものを攻撃する人たちというのはだいたい同じような人たちで、その時その時で「日本の現状の問題の可視化されたばかりの問題」についてのポリコレ的なリベラルサイドからの見方でない本に対して行われている、というのが現状のように思う。

結局彼らの正義というのはどこにあるのかということなのだけど、昨日書いた西部さんの批判するところの「近代化=理性信仰の行き詰まりが生んだ虚無」から目を塞ぐために、問題の本質を多角的に見ようとすることなく、定住(一部は不法滞在)外国人に対する「批判」=「ヘイト」であると「敢えて短絡」し、自分を正義のサイドにいるということを喧伝して道徳的優位性のマウントを行うとともに、「問題の本質についての議論を妨害する」ことによって「リベラルのお花畑を守ろうとする」戦闘性を正義とする、という現象が起こっているのだろうと思う。

「問題の本質から自らの目を塞ぐための攻撃」というのは「中国・ロシア・北朝鮮という危険な核保有国に囲まれている中での日米同盟批判」であるとか、「単独親権がもたらした子供の不利益に目を塞いでの共同親権批判」であるとか、「大多数の性的マイノリティが支持しない中でのLGBT法制支持」であるとか、さまざまな形で行われていて、特に「北朝鮮による拉致被害が明らかになったこと」「自衛隊の活動が災害派遣などにより広く国民の支持を得るようになったこと」など、彼らの信念と反する事実が明らかになり、また国民の大多数が彼らの正義に同調しなくなってからより激しさを増すとともに、「しばき隊」などと言われた暴力の行使を行う集団などの活動についても、共産党の委員長が自ら「理解」を示したり、また紀伊國屋攻撃を行なった市議がスモークを焚くなどの演説妨害行為を「表現の自由」などと強弁するなど、常識的に考えて目に余るような段階になってきている。

これは安倍政権の間にかなり顕著になってきた「アベシネ」などという品も節操もないような表現が「知識人」と言われる人たちから出てくるようになったことからも、西部さんのいう「知識人の自殺」という状況は既に現れていたなあと改めて思うのだが、その様相がますます悪化しているということなのだろう。

私などにしてみれば、近代的な正義がさまざまな面で対立を引き起こし、行き詰まっているのならば近代的価値そのものを見直したらいいのではないかとすぐに思ってしまうけれども、そういうふうにいわばラジカルに考えるのは半近代的であり、保守であり右翼でありあるいは極右である、と刷り込まれている人たちがいるのだなとは思う。

一度信念になってしまったことを相対化するのはそう簡単ではないとは思うが、やはり常識的に考えてそれは行き過ぎだと思われるわけだし、その「知識人」たちの暴走を見ているふつうの人たちが「より(従来の)常識的な考え方」に近い参政党を支持するようになるのも半ば当然であろうとは思う。参政党の地方組織などでは「参政党は何をやろうとしているのか」と聞かれると「昔の自民党のやっていたことです」と答えるそうなのだが、それだけ「今の自民党」に対して危機感を持っている人は多いのだろうと思う。

私などはついそういう方向で「ポリコレリベラルの方向性は大衆に支持されていない」という形での批判をしがちなのだけど、西部さんの本を読んで思ったのは、「知識人」とか「普遍的知性」とか「知性とは何か」という角度から考えても現在の知識人の方向性は問題がある、というかそれこそが根源的な問題なのだ、ということで、彼の言っていることをきちんとは理解しきれていない面があるからなかなか読みづらくはあるのだが、ここはちゃんと読んでおかないといけないな、とは改めて思ったのだった。

また、書店の側もそういう意味で「知の全体像を問い直す」というような構えではなくて、今の狭い「知の世界」と思われる人たち、実際には知の担い手というよりは活動家なのだが、の人たちの「目を塞ごうとする」動きに対抗できるだけの腹もなく、言われるがままに謝罪し後退するしかない状態なのは、その書店の側を構成する人たちもまた「近代知の価値を由来から探ってみよう」というような野心から遠ざけられた人たちが多くなっているからであり、その短絡思考を信じなければと思い込んでいるということなのだろうと思う。

今日も読書ノートを書くつもりだったが、最初の部分でも捉えきれていないところがあるのでもっと先まで読んでからもう一度考えた方がいいのではと思うところがあり、今日は読書ノートはお休みにしたいと思う。

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今日のジャンプ+は「ダンダダン」がお休み。その代わり、「サンキューピッチ」「サネカの嫁入り」「続テルマエロマエ」のどれも面白かった。また、「恋人以上友人未満」と「ラブイズオーバーキル」の2作品がたまたまだろうけど結婚式エンドで最終回。こちらも面白かった。

最近はジャンプ本誌でも「キルアオ」とか自分が面白いと思う作品が終わってしまい、新しい作品にも少しは手を出すのだがなかなか没入できない感じがあって、端境期だな、と思う。ただ、「鬼滅の刃」や「約束のネバーランド」「ゆらぎ荘の幽奈さん」など2016年に始まって2020年に終わったヒット作品などがあるように、同じ時期に面白い作品がどんどん始まるということもあるので、期待はしたいと思う。


西部邁「知性の構造」を読む(1):人文知の発達限界と活動家化と虚無との直面/「鬼滅の刃」再論:「鬼になること」と「絶対悪の絶対性」/湖畔の渋滞/「ふつうの軽音部」:本誌出張読切の珠玉のエッセンス

Posted at 25/09/01

9月1日(月)晴れ

昨日はずっとゆっくりしていたが、午後に出かけて図書館で本を返し、岡谷に行って「ロッキング・オン・ジャパン」の10月号を買おうと思って出かけたのだが、湖畔に出る道が警察が出て誘導していて、どうも湖畔の道のどこかが通行止めになっているということがわかり、途中で引き返して国道の方に出たのだが、国道も湖畔から合流しようとする車でかなり混んでいたので、山側の旧道に出て秋宮の前まで行ったのだが、すれ違いが難しいような道なので途中で何度もバックしたり横に入ったりしながらになった。秋宮前の交差点から先は空いていたので、そのまま順調にレイクウォークまで行って日差しが強いから屋根のある4階に車を止め、書店まで歩いて雑誌を探したが、なかった。

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その後モールに戻ってきて2階の書店も探したがなく、ネットで色々調べたら上田のタワーレコードにはあるようだったのだが、高速も通ってないルートで山を越えてそのためだけに上田まで行く、というのは流石に気合が出ず、とりあえず諦めた。「ふつうの軽音部」の原作者、クワハリさんのインタビュー記事を読みたいだけなのだが、電子でも出ていないのは辛いところである。夕食の買い物等してモールを出る。

帰りは国道を行き、順調に流れたがまた同じようなところで渋滞になり、一度湖畔の道に出たが美術館のところで警察が出ていて国道に出ろという指示があり、結局国道に戻ってきた。しかし少しでも前に進めたのが良くて、結局途中から旧道側の細い道に入り、紆余曲折しながら裏道に出ることができて、まあまあ順調に帰ることができた。湖畔で一体何があったのかはわからないが、ずいぶん長い時間閉鎖されていたし、夏休み最後の日曜日に観光地でこういうことが起こると本当に車が多くて大変なんだよなと思う。旧道の方を通った時も、ナビで見て入ってきたと思われる県外車が往来に困って結局こちらが道を譲らないといけなくなったり、まあいろいろだった。

夜は西部邁「知性の構造」の序章を読み終えて、第1章の途中まで読んだ。朝起きてから内容を最初からノートにまとめていたら結構書きたいことが出てきたのと、メモしてみると理解の助けになるような発想が色々出てきたこともあって、序章の第1節のところまでのメモだけでいくらでも考えられる、「一切れでご飯一杯食べられる」みたいな内容だなと改めて思った。

昨夜は9時ごろ寝たのだが、暑くて窓を開けっぱなしにしていたのだけど12時前に一度目が覚め、トイレに行ってもう一度寝床に入り、その後もそんなに熟睡というほどでもなかったが、もう一度起きた時に窓を閉めてパジャマを着てしばらく寝て、起きたら4時だった。7時間を一気に寝るというのはもう難しいなと思う。

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しばらく色々やってから5時過ぎに出かけてジャンプとヤンマガとスピリッツとカフェラテを買って帰ってきて、まず「ふつうの軽音部」の本誌出張版を読む。スマホの画面でも単行本でもない本誌の薄黄色の紙に印刷されたジャンプの画質の「ふつうの軽音部」は、センターカラーの扉付きでちょっと感動ものだった。

こういう単発の読み切りをどう書くかというのはクワハリさんもかなり苦労したようなのだけど、設定として「学校説明会の後の部活見学」という場面にしたのは良かったと思ったし、何より選曲が良かったなと思う。一つ一つの歌詞を歌う鳩野の表情の変化がとても良い。内容的には、彩目が鳩野の弾き語りを公園で聞いた時のパターンだったのだが、それに久々の厘の信者ムーブを組み合わせるという感じで、「ふつうの軽音部」の魅力のエッセンスをコンパクトに紹介した、という感じだった。

これがアンケートでどれくらい順位を取れるか、よくみると昔のようにハガキも切手を張る必要は無くなっているので、投函したいと思う。ジャンプラは毎日リアルタイムで順位が出るが、本誌のアンケート結果は掲載順位の上下で推測するしかないから読み切りでは順位はわからないけど、本誌でも評価されると良いなと思う。連載は正直今のままジャンプラの方がいいと思うけれども。

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ふと「鬼滅の刃」のことを考えていたのだが、ジャンプで連載されていたとき、特に初期は「面白いのかな?どうかな?」という感じがあった。それは炭治郎と禰󠄀豆子という主人公たちと、鱗滝という育手(いわば引退した先達)、それに善逸と伊之助という仲間たち(育ちつつある未熟な仲間たち)だけではまだなんか足りないな、というところに「柱」たちという鬼殺隊「現役最強メンバー」たちが現れたことから面白さが確立したのだよな、と改めて思った。

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これはアニメ化の過程においてもうまくいかされていて、地上波で蝶屋敷までやった後で映画で無限列車編をやり、炎柱・煉獄杏寿郎をクローズアップするというプロデュースの仕方に現れていた。こういうやり方はオンエア版がよくわからないエンドになった「新世紀エヴァンゲリオン」などではあったけれども順調に連載されていたジャンプ作品をこのように扱うというのはちょっと驚いたのだけど、映画史を塗り替えるようなヒットになってもっと驚いた感じがあった。

「鬼滅の刃」というのはその時点において炭治郎の成長物語であるだけでなく、戦隊ヒーローものの要素が取り入れられて、ある意味当たり前のことである「どの集団でも現役の最強集団が一番強い」という当たり前のことが再確認されたのが良かったのだと思う。そしてその最強の「柱」でさえ命を落とすような「鬼」の強さというものが再度強調される。それは永遠の命を持つ鬼の強さであり、「お前も鬼にならないか?」という猗窩座のセリフに対し、「命を燃やせ」と有限である人間がそれだからこそ尊い、という強烈なメッセージにつながる。これは確かに「最強」だからこそ言える言葉であって、炭治郎たちにも強くなることの強いモチベーションを与えるわけである。

それはそれとして、私が作中最も好きな場面は蝶屋敷の屋根の上での炭治郎としのぶの会話なのだが、あれでこの話は絶対面白い、と確信した感じがあった。「鬼」である禰󠄀豆子と共に行動し、「鬼」とも理解し合える可能性を一途に信じる炭治郎に対するしのぶの期待。その願いのようなものが最後までこの話を貫いていて、そして最後に鬼舞辻無惨は絶対に理解できない、受け入れられない、で終わる。ここはある種の挫折ではあるのだが、挫折であるが故の諦念というか、人間には不可能なこともあるからこそ、生きる意味があるみたいな感じもある。

鬼に対しても理解できる可能性、みたいなものが上弦の鬼に対してもーある意味作中最もヘイトを集めた猗窩座に対してもーある程度は維持されていくのだけど、だんだんそれが難しい状態になり、まあ童磨とかになると無理、という感じにはなる。しかしそれもまた超自然の怖さではなく、無惨その人も含めて人間の醜さではある。妖怪よりも何よりも、一番怖いのは人間である、ということでもある。そしてその滅び方の悲惨さにおいて作者は一掬の涙を注いでいる感はあるのだけど、最低限の人間性を捨ててしまったものに対する「人間の持つ非人間性」についての糾弾がどこから来るのか、と考えていて改めてまた思った。

実はこれは終局に近く炭治郎が無惨に対して怒りを燃やすセリフを言う場面で理解しきれないと感じたことの一つで、この糾弾の由来が常識的なものなのか、宗教的なものなのかなどについて、今でもまだちょっとわからないところがあるなと改めて思ったわけである。

逆に言えば、この炭治郎の怒りを自分では共有できないところがあると言うことでもあるなと思う。それは、自分の中にしのぶとのあの蝶屋敷の屋根の上でのやりとりが強くあるからでもあるのだが、数々の人々の不幸を、特に自分の両親や禰󠄀豆子に対してももたらした存在であるのに身勝手なことを言う、ことに対しての怒りだと言えばもちろん論理的には理解はできるのだけど、なんだか納得しきれないところが未だにあるのである。

つまりそれは、炭治郎がどう成長したのかと言う話でもあり、「鬼に対する甘い気持ちを持っていた炭治郎が鬼たちとの戦いの中で諸悪の根源である無惨に対し許すべきでないものを許さないと考えるように成長した」と言うストーリーを考えても良いのだが、どうもなんだかあまり面白い感じがしない、と言い換えてもいいかもしれない。

逆に言えば「絶対悪は絶対悪であった」と言う進次郎構文で収まる話だったのか、と言うことでもあるかもしれない。鬼たちの非道さも、より根源の悪である無惨たちから発したもので、まあそれは例えば「有害な男性性みたいな絶対悪」である、と言う話はまあ流石に面白くはないだろうと思ってしまう。

そこに対する批判は以前からあって、こう言う話はもちろん似たような先行作品は色々あって、例えば「NARUTO」なども先行する最強の実力の持ち主が殺されてしまう時の「信念の継承」みたいな話は描かれているのだけど、「NARUTO」の方がより深さを感じさせる、と言う批評を聞いたことがあるのだが、私も話自体は両方ともとても面白いと思うけれども、そう言う点で確かにNARUTOの方が疑念が残らないな、と言う気はした。まあ、この辺りのところはまた考えてみたい。

https://note.com/kous37/n/n0f80b5f3fea6

ちなみに以前書いた同じ問題についての文章は↑である。今とは結構スタンスが違うなと思った。

後から考えた蛇足を追加すれば、「絶対悪」と言っても所詮は「人間レベル」であって、ある意味人間的な限界を持っている、と言ってしまった方が納得できるような気もした。鬼になっても絶対の存在にはなれないのである。

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西部邁「知性の構造」、読んでいるのだが、骨太であるのと、現代の思想状況への的確な指摘、予言とも思えるような部分もあり、なかなかスイスイとは読めない感じがある。

全体構造としては序章「崩落しつつある知性」で全体的な問題の性質について述べていて、その後で各論に入っていくと言う感じである。第1章は「真理への渇望」であり、これはつまり「真理などないのではないか」と言う意味での虚無主義との戦いの経緯の中でしか出てこないものであって、知性というものが本来真理を探究するものであったことを、目次を見ていて再確認した感じがあった。

序章の中の各節の表題を挙げると、「知識人の虐殺」「世論の暴虐」「マスメディアの暴走」「虚無主義の猖獗」となっていて、ノートを取り直したのはまだ第1節の「知識人の虐殺」の部分だけである。

この節ではすでに第1節から「大学のアカデミズムにあっては、専門的に断片化された知識が単に頼りなく浮遊しているというだけでなく、当の専門的知識がどうやら発達の限界に達したらしい。」とある。この分の前半の「専門的に断片化された知識が頼りなく浮遊している」というのは現代のアカデミズムについてよく言われることでもあるし、そんなに斬新というわけではないが、後半の「当の専門的知識がどうやら発達の限界に達したらしい」というのは考えてみればかなりラディカルな告発である。

つまり、「専門的知識」というものが「もう発達しない」のであれば、「学者=知識人」というものはなんのために存在するのか、という本質的な問題が立ち現れるわけである。

もちろんこれは理系分野ではいくらでも発達し続けるものであるし、物理や化学・生物学などの基礎科学だけでなく、工学や医学などの応用的な分野においても恐るべきスピードで進化していて、多くの学者やそれに関連した技術者たちが必要とされ、新たな段階を切り開き続けている。

ただ、よくその代表例とされる人工知能=AIだが、自分が使っている、つまり人文・社会系の学問などへの応用のレベルで言えば、正直大したことないなという印象である。当然だが、過去に書かれた膨大なネット上のテキスト等から引用したり機械的に総合したりしたものが結果として現れているだけだから、新しいものは出てこない。学生のレポートなど、第一線の研究でないものに関してはなんとかなるかもしれないが、それにしても参考文献の名前を勝手に作り出すなど、文献研究のイロハもマスターしていない段階である。前衛的な研究は過去の積み上げの中から生まれるというのは事実だが、そういうものについても全てがネット上で文献化されているわけではないし、勝手な類推が酷すぎて、例えば「文屋宗于」という人物について調べていても勝手に「源宗于」について結果を吐いたりするわけだから、役に立たないなというのが正直なところである。

今とりあえず使えると思っているのはDeepLのような翻訳ソフトであって、これは本格的には学習したことのない言語で書かれている文献をとりあえずはだいだいこんな感じかと粗々理解できる程度の結果は出てくるし、長大な英文でもとりあえずは日本語で読むことで下訳的なレベルでは使える、という感想を持っている。

まあ人工知能は個人的にはまだまだこれからだと思うが、こちらが全然予想しないようなレベルで技術が進んでいる分野もかなりあり、例えば新プロジェクトXなどを見ていると、阪神大震災や重機によるATM破壊窃盗事件などをきっかけに進んだ重機のIT化・デジタル化などはすごいレベルが達成されているのだと改めて感心した。

しかし文系分野、特に「真理の探究」を行う哲学系や社会学系の分野において、全く新しい研究というのがどれくらい出てきているのか。そういう意味ではもうそういうものは考え尽くされたということかもしれないし、あるいは認知論そのものから解体して人間の思考というもの自体の不確かさみたいなものを掘り下げていくくらいしかもうやることが残っていないのかもしれないと思う。

そういう意味では日常的な、人間的なレベルの思考においてできることはもうやり尽くされたのかもしれないし、今の人文系の学者たちが「真理の探究」についてはもう諦めて、自分が獲得した思想によって社会を変えようとする、運動家として活動する人が多くなっているのもそのせいかもしれないと思った。

こうした「知識をもとにした活動家」は19世紀のロシアで同じようなことをしていた「インテリゲンチャ」と言われる人たちがルーツといえ、この節でも少し触れられているが、この本の書かれた状況を反映してかその記述はわずかで、社会主義の解体過程の中で「インテリゲンチャ」の名に値するものはほとんどいなくなった、とのみ書かれている。

確かに現代の「アカデミックな皮を被った「活動家」たち」を見てみると、その根源にあるべき「知性」そのものが枯渇していると思われるような人ばかりであるのが現状であるように思えるし、本来滅びるべきであった左翼の延命のための活動がマスコミや出版界その他の利益共同体の手によって命脈を保ちつつ、行政や司法に食い込むことでさらに害悪を広めているのが現状だと思うのだが、西部さんにしてもそこまでは1996年の時点で予測はできなかったのかなとは思う。

いずれにしてもジェンダーやポリコレといった教義にこだわるばかりでそこから出てくる現実との矛盾には目を伏せ耳を塞ぎ、対話すら拒否するという姿勢でやっているわけだから、もはや知性や知識人という名前にも値しない人々が大半であるようには思う。知性とはまず何より、そうした矛盾に反応し、それを探り、その解決に意を注ぐ鋭意であるはずだからである。

もう一つの知識人の類型として出てくるのが「インテレクチュアル」だが、これは啓蒙主義を起源とし、知識が自立的に発展するものだという楽観性に依拠し、その意味での「理性信仰」に基づいて知識の蒐集と学習と反復に明け暮れる人たち、という描写がされている。

ここでなるほど、と思ったのはつまり、「理性とは相対的な存在である」という指摘である。つまり、ある種の人々が信じているような形での「絶対的な存在ではない」、ということである。だからこの「理性の限界」について薄々認識はしながら、その「限界に対する恐怖」や「それがもたらす虚無の可能性」について気づきながら、それから逃避するために知識の蒐集と操縦に終始しているのが現在のインテレクチュアルである、という事になる。

この「虚無との直面」について、少し先を読んでいるとニーチェの話がちょっと出てきていて、その辺を少し調べてみた。

ニーチェのいわゆる「虚無主義」というのは、あの「神は死んだ」という言葉で表現されるものであり、私はそれを「キリスト教」とか「伝統的世界観」という程度に捉えているところがあったのだけど、言われてみたら当然なのだが19世紀末というのはある意味すでに「近代の行き詰まり」が意識されていた時代なわけで、したがって死んだのは神だけではなく、「理性は死んだ」ということでもある、ということだと思った。

そして神は死んだ、理性は死んだ、じゃあどうする、という虚無と混乱の中で、その状況に雄々しく立ち向かい、それを「克服」しようという思想が「永劫回帰を意志的に引き受ける超人」である、ということになる。(この辺を考えていて、つい「魔法少女まどか☆マギカ」の暁美ほむらを連想した)つまり、彼岸的な幸福に逃げず、この大いなるものと取るに足りないものに満ち溢れた「この世界」を生き抜く、ということが「虚無の克服」である、ということになる。(漫画版「風の谷のナウシカ」も連想される)しかし現実の知識人たちはその克服の方向ではなく、知識の蒐集や学習・反復に「逃避」するばかりだ、というのが西部さんの批判だということになる。

まあしかし、全ての人間が超人として生まれてから死ぬまで生きるのは難しそうではあるし、西部さんにしろ例えば江藤淳さんにしろ最後には「生きることを断念」しているわけで、なかなかハードな設定であることは間違いない。

ただそのための生きる中での希望というか頼るべきよすがとして、20世紀のイギリスの保守主義思想家オークショットが「友との会話の楽しみ」ということを言っているのだけど、西部さんもまた「議論の重要性」ということを後の方で説いていて、この辺が永劫回帰の世界に生きる苦しみを和らげてくれるものだと解釈していたのかなとも思う。

で、ちょっと脱線して明治維新以来日本において虚無主義が横行した状況を一度さらってみてどのように推移したか考えてみるのも良いかなと思ったのだが、ちょっと書いた量が増えてきてしまったので今日はこのくらいにしておきたいと思う。


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