「ふつうの軽音部」89話感想と原作者さんの自己イメージが投影されたキャラ/ガラケーをガラケーに機種変更する/真珠湾から84年/神保町を歩く
Posted at 25/12/08
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12月8日(月)晴れ
在東京。昨日は朝ブログ/noteを書いたりいろいろ片付けたり体調を確かめたりしてから出かけたが、9時すぎになった。国道をしばらく走って国道沿いのセブンに入り、ミルクティーを買う。もう少し早く出たかったのだが気になるところがないように確かめながら出かけたので少し遅くなった。高速に乗ると、もう日はそれなりに上っていたのでそんなに眩しくはなかった。体調を確かめながら走り、八ヶ岳PAでトイレ休憩。10時過ぎだったので順調に流れたという感じである。それから釈迦堂PAまで走ってお昼を買う。昨日はネギ塩カルビ弁当と、新蕎麦まんじゅうにした。それから中央道をずっと走り、藤野のPAでトイレ休憩。最近、石川までもたなくて藤野でトイレに行くことが多いのだが、そういう体調の波みたいなものは不思議なものだなと思う。そのあとは休憩なしで走ったが、目立った渋滞などもなく、順調にお昼過ぎに東京の自宅についた。
今回の帰京のメインの目的は(うちに帰るのに目的もへったくれもないのだが)新しい携帯を受け取ることだった。今まで使っていた機種(FOMA)が来年3月に使えなくなるということでギリギリまで機種変更を遅らせていたのだが、最近は電話をかけると2回に1回は接続する前に機種変更のお願いが流れるようになり、かなりうざったくなっていたので交換することにしたのである。新しい機種の無料提供(と言っても4000円くらい手数料はかかるが)がxiのガラケータイプとaquosのアンドロイドが提示されていたので、xiのDIGNO KY-42Cの方にした。今調べたら京セラの機種のようなので(KYとは京セラの略かと合点)国内製品ということだろうか。
いつ届くかわからなかったので無料提供が提示してあったもらった郵便物の問い合わせ窓口に電話して聞いてみたら、土曜日に届くとのことだったので、土曜日はいないから郵便局の不在通知があるだろうということだったわけである。家に帰ってみると郵便物の差し入れ口に不在通知が入っていたので一安心。ご飯を食べて少し休憩してから出かけることにしたのだが、ちょっとずるずるとネットを見たりして少し遅くなった。
出かけた正確な時間は思い出せないが、1時半と2時の間に出かけて郵便局まで歩く。今Googleマップで調べると2キロ弱、徒歩29分とあるが、そんなにはかからなかったと思う。行きは線路沿いをずっと歩いて橋を渡り、路面電車の軌道跡の緑道公園を歩いた。よく晴れていて割といい感じだった。郵便局前に昔はダイエーがあったのだが、取り壊されて工事していたのだけど、昨日行ったら新しい建物が建っていて、1階はイオンになっていた。郵便局で小さめの段ボール箱を受け取り、ノジマ電気のエコバッグに入れて、イオンに行ってみた。新しいからか便利な場所だからか随分混雑していたが、夕食の鮭の西京焼き弁当と中華桃饅頭(饅頭ばかり買ってるな)、朝食用のアップルパイと牛乳とカットサラダ、それにインスタント味噌汁を買った。帰りはバスに乗ったが、駅前の停留所が二箇所で行き先が違うのを忘れていてどちらだったかわからず困ったが、結局正しい方に並んでいたようで良かった。この時間のこの路線のバスに乗ることはあまりないのだけど、思わぬところで結構降りたりしてなんだか発見があった。
家に帰ってきて段ボール箱を開けると半分は上底になっていて、開通のための案内と携帯本体の箱、それにUIMカードが入っていた。久々に取説を見ながら本体にカードを入れ、電池を装着して起動させる。開通の案内に書いてあった電話番号に電話し、ネットワーク暗証番号を入力。これが不確かだったのだが、問い合わせの電話をしたときにも入力させられて、1回失敗して2回目で正解だったので、今回はスムーズに行った。で、開通自体はほぼ順調に言ったのだが初期設定が面倒でまだやり終えていないところがあるので、時間のあるときにやろうと思った。
ただ困ったなと思ったのが電話帳が自動では移し替えられていないことで、ネットで調べてみたらドコモの店舗に行けばセルフで移し替えられる機械が置いてあるということがわかったので街に出かけるついでに駅前のドコモに寄ることにした。出かけたのはもう夕方になっていたが、散歩にはいい日和だなと思った。ドコモで聞いてみるとセルフの機械が壁際に置いてあり、自分の使っていた携帯と新しい携帯の両方がちゃんと使える機械であることがわかったので自分でいろいろやってみたのだが、最初はよくわからず店員に聞いてみると、設定するために押すボタンが違うことがわかった。店員についてもらってやるなら順番待ちして料金もかかるということだったので、逆に言えば自分でやれば無料なんだなと理解。そのあとはいろいろ試行錯誤もあったが無事電話帳と画像をコピーすることができた。
メール設定などもしないといけないのだが今携帯メールはスパムの山になっているのであまりやる気がしないので、時間があるときにやろうと思う。とりあえず帰京の目的はこれで達成できたことにした。
なんかだらだらと書いてきたがこれから3G(FOMA)から新しい機種に乗り換える人もいると思うので参考までに。私が今まで使っていたガラケーの機種はSH-07Fという佐藤可士和デザインのもので、かなり愛着があったのでずっと拘っていたのだけど、使えなくなるのでは仕方ない。最近はもうスマホがメインだからどれもみな同じデザインになってしまうし、個性を出そうとするとデコるみたいな感じになるから、引き算の美学で楽しむことができない。スマホも便利ではあるが「自分の持ち物」として気に入るための要素は初期の「他の人が持ってない」という時期を過ぎてしまえばあまり面白いものでもない。今回取り替えたガラケーもデザインとしてはごく普通なわけで、それはもう世の中の主流ではないからデザインにお金をかけてもらえないということでもあるだろうし、まあ仕方ないなとは思う。世の中の流れは必ずしも自分の思う良い方向には行かない。
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地下鉄に乗って神保町に出て、夜の街を歩く。まだ開いていると思って入った画材屋のカフェが、閉店時間が今日だけ早いということで結局お茶をできなかった。東京堂で少し本を見たが、欲しいものはもう買ってあるという感じ。書泉グランデに行ってマンガも見たが、こちらも特に買うものがない。階段に貼ってある「織田ちゃんと明智くん」と「これ描いて死ね」の複製?原稿が上手いな、綺麗だなと思って拝見したのだが、この2作品は結構このお店としての推しなんだなと思う。この壁の展示は割と新しい作品を知る手がかりの一つでもあって、「見える子ちゃん」に関心を持ったのもここに貼ってあったポスターがきっかけだった。第1巻が出て少し経っていて、店員さんに聞いたら売り切れているとのことだったので、余計読みたくなったという感じだった。などということを思い出したり。
結局今回は何も買わずに帰る。以前は靖国通り沿いにディスクユニオンがあったのでそこで廉価のLPを買って帰るのが一つ習慣だったのだが、ディスクユニオンもなくなり家のアンプも故障していてレコードを聞けないので、今は携帯用スピーカーでiPhoneからBluetoothを飛ばして聞いているのだが、やはりちゃんとしたアンプの音とは違うしレコードが聴けないのは残念である。早く直せばいいのだけど。
家に帰ってイオンで買った西京焼き弁当を食べ、ソファで横になったらすぐ寝てしまい、着替えるだけ着替えて布団を敷いて寝た。
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12月8日といえば真珠湾攻撃から84年経ったわけだが、中国がいろいろなんか言ってるので第二次世界大戦を思い出す機会は結構多いわけである。まあ中国としてはそのことでアメリカに往時を思い出させ、「日本が敵だった」ことを思い出させて日米を分断しようとしているわけだから、そういう挑発にあまり乗らないようにしないといけないだろう。日中戦争というものは実際に何があったかで当然ながら議論されるわけだけど、それよりは当初の目標というか狙いと現実、実現できたもののズレみたいなものをもっと検討すべきだろうと思う。
そのズレがなぜ起こったかということの理由はもちろん日本側の様々な国家体制の不備であるとか陸軍内部の問題もあるが、中国側に対して日本が研究不足だったところが大きいのではないかと思う。これはもちろんアメリカに対してもそうで、日本側の思い込みみたいなものがアメリカに対しても中国に対しても当てが外れた、というところに結構大きな問題があるように思う。
これは昨日書いた「たとえば「自由」はリバティか」に取り上げられているような認識のズレとも多分関係してくる。そして外交側が軍事に疎く、軍人の側が外交に疎すぎる、というのもまた問題だったのだろうと思う。現在その辺がどうなのかはわからないが、軍事の側は外交を研究すべきだし、外交の側も軍事をもっと研究すべきだろう。その上で不必要な口出しをしないことは難しいことかもしれないのだが。
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https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912579003221
「ふつうの軽音部」89話「春浅き日々に泣く」。内容に触れているので気になる方は上記のリンクより先に本編をお読みください。
水尾・純・レイハの過去編から現在に戻り、レイハのライブの直前のホールと、動揺する水尾が出られないプロトコルのメンバーたちの話し合いの場面。
水尾たち3人の関係は、こういうことってあるだろうなという展開で、レイハが性格を拗らせた経緯が納得のいく感じで描かれていて、レイハも気の毒だったんだなということがよくわかる。また先週、「3人で(水尾抜きで)演奏する」と宣言した鷹見だが、遠野と田口に反対されて鷹見が仏頂面をしている。それを影で聞いている鶴先輩の存在が不穏だし、また彩目もホールに戻ってきていないことがわかり、コメント欄では「これは彩目が代わりに演奏して旧プロトコルが1回だけ復活するのでは!」と盛り上がっているのだが、はてさてどうなるか。彩目は79話で七道高校には因縁のある人がいそうなことが暗示されていたのでその辺に引っかかっているのではないかと思うのだが、そこから旧プロトコルに話がつながるか、展開は予断を許さない。
昨日読んだ「ふつうの軽音部」の感想でこういうnoteがあった。
https://note.com/fond_violet2987/n/n94b06aef7353
冒頭で「BECKとかブルージャイアントと比べる漫画じゃないのよ、世にはそういう音楽漫画と比べて腐する意見あるけどさ これはドロドロの青春のわだかまった感情の発露を特定の世代にびたりとハマる曲の歌詞に合わせてエモくなる漫画」と表明していて、これは確かにその通りだなと思った。
軽音部のバンドのマンガだから当然音楽的な巧拙の描写もあるのだけど、基本的には「難しい曲を弾いてるから上手い」とか「頑張って難しいフレーズを弾いている」という感じの描写で、演奏の描写にめっちゃ深みがある、という方向に深められている作品ではなくて、「高校軽音部という青春」を群像的に描き出す作品だというのが正しい捉え方だなとは思う。
原作者のクワハリさんは高校教師として軽音部の顧問をやっていた経験があり、大規模軽音部で繰り広げられる様々な出来事からインスパイアされてこの作品を書いているとのインタビューがあった。インキャで癖のある声ながら人を動かす力を持っている歌声の主人公・鳩野ちひろに、その歌声に神を見たバンド仲間・神山凛の策略もあるけれども、結局は鳩野の歌声の魅力でドラマーの内田桃やギターの藤井彩目が参加して結成されたバンド・はーとぶれいく。このメンバーを中心に、彼女らの背負っている過去や生きている現在について話が展開し、最初は大失敗したライブ演奏も文化祭で彼らなりの成功を収め、ハロウィンライブでライバルバンド・プロトコルともいい勝負に持ち込み、また新たに鶴亜沙加という策略キャラが加わって、吹奏楽部の顧問・指川と鳩野のダブルボーカルが実現し、新しい局面を切り開く。
そんな中で鳩野の過去だけでなく内田桃・藤井彩目・先輩の新田たまき・ライバルバンドの鷹見項希らの過去が語られていくのだが、それぞれが青春の傷跡を引きずっているのだけど、彼らのわだかまりが鳩野の歌声によって昇華されていくのがこのマンガの読みどころということになるだろう。
現在の水尾・レイハの過去編からの延長で、今回のライブで彼らが鳩野の歌声で救われるのかはわかりにくい展開になっているのだけど、クワハリさんの深謀遠慮を考えるときっと思いがけない展開で彼らも救われていくのだろうと思う。
で、クワハリさんの一つ一つの描写の「あるある」度合いがすごいのだけど、これは彼自身の青春時代の経験や教師として向き合ってきた子どもたち、あるいはさまざまな読んできた作品の中から出てきた話なのだろうと思う。キャラクターの設定としては陰キャの鳩野に陽キャの桃、彼女らを動かすために設定された策略家の厘、「桃」に対比される彩目(あやめ)(桃の節句と端午の節句だろう)という感じで設定されていて、主人公が鳩でライバルが鷹、先輩が鶴、と主要キャラを鳥で固めてきたりと工夫があるが、陽キャだけどAセクだったり、憧れの先輩だけど同性愛者だったり、部員の中にも外国にルーツがあるらしきメンバーが何人もいたりと、多様性も表現されているので変に左翼ウケが良いのはちょっと問題なのだが、そういうものも含めて「ふつう」の軽音部なんだ、という主張がはっきりしているのは良いなと思う。
で、大人キャラもぼーっとした軽音部顧問の丸太、ちょっと意地悪な吹奏楽部顧問の指川、鳩野に音楽で影響を与えた元バンドマンの自信がない父親(離婚して離れて住んでいる)など、さまざまで、私は丸太や父親がクワハリさんが自己を投影したキャラなのではないかと思っていたのだが、こうした多様な青春群像を熱意を込めて描き出すことができる凄さを見ていると、実は作中で厘の上をいく策略家であり、青春の多様差に異常な熱意を込めて自ら演出さえしようとする鶴先輩が、クワハリさん自身の自己イメージなのではないかという気がしてきたのである。
私はこの作品についての作者さんたちのインタビューなどはほぼ読んでいると思うのだが、鶴についてコメントしたものはまだ読んでないので、またインタビューされる機会があったら、インタビュアーには是非その辺りのところを聞いてもらいたいなと思うのだった。
「権利=正義」という概念の手強さと中国が非難される理由:「たとえば「自由」はリバティか」を読んでいる/年末の忙しさ
Posted at 25/12/07
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12月7日(日)薄曇り
水曜日にタイヤ交換をしガソリンを入れに行って、木曜日に整体で松本へ、金曜日にも病院で母を松本に連れて行って、昨日はクリーニングを出しに行ってタイヤの増し締めをしてもらったり、とりあえずやろうと思ったことはやっているが、年末の仕事はあと年賀状を書くこととお歳暮を配ることがあり、あとは人に依頼している仕事と、今日は東京の自宅に新しい携帯が届いているはずなのでそれを取りにいくこと、などがある。
新しい携帯というのは、私が使っているガラケーが3Gなので期限が切れると使えなくなるから、新しい機種に交換したのが届くということである。最近はしばらくの間電話をかけるたびに2回に1回の割合でNTTドコモからのメッセージが流れるという異様に使いにくい状態になっていたし、かなり前からモバイルSuica機能も使えなくなっていたりと交換する理由は結構あったのだがいろいろと面倒だったので交換しないでいた。交換したと言ってもxi機種なのでまたしばらくしたら使えなくなる可能性もあるが、まあ折り畳みガラケーという伝統機種をもうしばらく使おうとは思っている。嵩張らないのがいい。
「たとえば自由はリバティか」はやはり考えさせられることが多い。なんというか、原語(西ヨーロッパ語)と翻訳語のズレという割とニッチな話題だと思って読み始めたのだけど、かなり本質的な問題が多いということが読みながらわかってきた。私は西洋史を専攻していたのだが、最終的に、文献や研究書を読んでいても彼らの価値観が結局あまりよくわからないという感じになり、これは無理かなあと思ったのが大学での研究を修士課程までで続けなかった理由の一つなのだけど、この本を読んでいて彼我の考え方の違いのようなものがだいぶはっきりわかってきた感じがある。
自由という概念は「奴隷でないこと」が中心的なもので最も重要だ、という話からこの本は始まるわけだけど、日本語にもともとある「自由気まま」とか「囚われなく自由自在」「思い通りになる」「カラスの勝手でしょ」という意味とは大きく離れるわけで、つまり西欧的な意味で「自由であること」というのは「高貴であること」、という意味が伴い、つまりは「奴隷的状態にある人に対する蔑視」が含まれている貴族主義的、もっと言えば差別主義的なニュアンスさえあるわけである。「高貴な貴族主義」も「偏見なく人と接することができる」みたいな平等的視点が入っていたら多少鼻持ちならなくてもまだいいが、「奴隷や元奴隷なんかと一緒にされない」みたいな方が強くなると自由の概念も結構扱いが難しくなる感じはあるわけである。
要するに、彼らにとって人間にとって一番大事なことが「自由であること=高貴であること」なのだということは押さえておかなければいけないということで、それはそういうふうな意味の方向に、西欧思想全体がバイアスがかかっている、ということなわけである。仏教、特に日本仏教では「草木国土悉皆成仏」であって、人間だけでなく全ての存在が仏になりうる、みたいな平等観が強く、また「諸行無常」的な意味で人間存在というのも儚いものである、というのが基本にあるから、その辺から見るとこうした「人間の高貴さ」みたいな考え方はある種の観念複合体に過ぎない、ということになるわけである。
しかし「自由という観念」に出会った時の日本人たちがそうは受け止めなかったのは、その「高貴さ」というものを理解できる人たち、つまり「武士たち」が政権や教養の中心にいた、ということが大きいだろう。彼らは「自由」という観念の重要さを正当に評価することができた、ということになる。また観念体型として公式的に認められていた朱子学の力は限定的で、より実践能力を重視し、人間一人一人の役割を重視するような「御威光=武力による支配」が貫徹していたために、その拠って立つ根拠を「将軍の軍事指揮権による与えられた役割」から「天賦人権」、「天から一人一人に与えられた自由であること」に置き換えることが可能だったということがあるのではないかと思う。
この辺はもう少し詳細に検討すべきことだとは思うけれども、自由という観念を日本人が受け入れることができたのは本書に書かれている「自由自在・自由気ままという観念の魅力」だけではないだろうと思う。歴史的経緯の中で発達した日本社会における人間というものに対する考え方に、こうした西欧思想に対する親和性がもともとビルトインされていた部分があったのだろうと思う。それが偶然なのか、ある種の並行進化なのかはまだ結論は出せないが、よく言われるように近代化の段階で全く異種の文明体系の諸国諸民族のうち、日本だけがその初期に大きな成功を収めたことの理由はその辺りにあると思う。資本主義化の成功については前近代にかなりの発達があったからということは以前からよく言われているけれども、政治の西欧近代化の成功についても、そういう部分はあったのだろうと思う。
で、自由のところを読み終えて二つ目の「権利」のところを読んでいるわけだが、これもまたかなり手強い。私は権利とは「やっていいこと(やらなくてもいい)」であり義務とは「やらなければいけないこと」である、というくらいの理解だったから「権利」について掘り下げてしっかりと考えたことがあまりなかったことに読んでいて気が付いた。
もともと英語における権利=right、フランス語におけるdroitに「正しい」「正義」という意味があることは理解はしていたが、それが「権利」という概念とどう関係があるのかはなんというか考えるのが面倒くさいと思っていた部分があるなと思った。この本では、日本語で「権利」と訳されているrightの本来の意味は、「法的あるいは道徳的に正当な要求」ということだと解説されている。つまり「権利の要求」には本来「正当な正義の実現の主張」という部分が含まれているということになる。
しかしまあ、ここで「正義」が絡んでくると、ややこしくなる部分がある。つまり、「何が正義かは人それぞれ」という部分が出てくるからである。この本でその議論を回避しようとしているのは、その正義というのは人それぞれの「信念としての正義」ではなく、「公平としての正義」、つまり日本で言えば「道理」としての正義、「筋としての正義」みたいな感じだと説明されている。その辺りを考えると、権利rightを筋(すじ)と訳すと「権利を主張すること=筋を通すこと」となり、日本語としてわりと分かりやすい感じがするなと思った。
ただ、ここでは議論は回避されているが、「人権外交」などに現れるように、「信念としての正義」と「権利」という概念は割と親和性が高いことも事実だろうと思う。「女性も人間なのだから男性と公平に扱われるべき」という主張は「公平としての正義」に属するから正当性は強く広範囲に認められると思うが、「女性は「弱い(そのほかネガティブな状況)」から権利をより多く与えられるべき」になると公平性原則から外れるので「信念としての正義」の領域に入るだろう。この辺りが混同されているからフェミニズムその他マイノリティと称する人たちの運動が批判されているのだろうと思う。
また、「権利」特に「人権」は正義であるから、それが不当に奪われたり弾圧されたりすることはあってはならないことであり、そうされたらそれを回復しようとしないことは正義ではない、ということも指摘されている。この辺りもこれが「公平としての正義」に限定されていればともかく「信念としての正義」に適用されるとかなり大変なことになるのは自明だなと思う。
私も駒場寮に住んでいた学生時代に革マル派の人と議論したことがあるが、三里塚で闘争に加わることは義務だ、みたいに主張されて行きたくないから行かない、とめちゃくちゃ反論したことがあった。彼らの主張は主張として理解はできるとは言ったが賛同できるとは言っていないのだけど理解したなら行動すべきだみたいな議論であったような気がする。まあ昔のことであるが。
現代に近い時代のことで言えば、天安門事件によって西側諸国から排除されていた中国との交渉を最初に回復したのは日本だったわけだけど、これもまた西欧諸国からは日本は「信念のない国」だと思われたのではないかという危惧はいまだに感じている。あれは明らかに国家による明確な国民に対する弾圧であって、近代国家であってはならないことだが、そうした国が国際連合で常任理事国という地位にあることは、当然ながら公平としての正義にも信念としての正義にも反することだろう。それをとりあえずは政治的協調と経済的互恵という屁理屈をつけて容認してきたのが今までの時代であったわけだが、今回の台湾有事をめぐる中国側の狂乱というのは今までのそうした国際的な対中国政策が正しかったのかどうかを疑問視させる部分はあるだろうなと思った。
まあそういう意味で、「権利」という概念は相当怖い概念だなと改めて思ったわけである。まだこの章は読んでいる途中だが、自分の中でいろいろ整理しながら読む必要があるなと思った。
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そのほかマンガの感想についてもいろいろあるが、また改めて。今日の更新の「ふつうの軽音部」89話「春浅き日々に泣く」、かなり良かった。泣くだろこんなの。
日本的な「自由」の可能性と課題:「たとえば「自由」はリバティか」を読んでいる/「シテの花」ウェブ移籍、「2.5次元の誘惑(リリサ)」クライマックス、ビートルズ/マイナス5.8度の朝
Posted at 25/12/06
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12月6日(土)晴れ
昨夜はうたた寝からなんとか立ち上がって着替えて歯を磨き、2階で寝床に入る際にオイルヒーティングをつけてから寝たのだが、布団の外の空気をそんなに寒く感じなかったのでつけて良かったのかなと思って下に降りて時計を見たら5時。ああ結構寝た感じがあるなと思い、ちょっと寒いなと思ってスマホで気温を調べたらマイナス4.9度。いきなり「来た!」と言う感じである。氷点下も1度くらいならまあ寒いよなですむが5度レベルになるとやはり本格的に寒い。家の中を寒く感じたのは正解にしても、これはついに本格的な冬到来だなと思った。最低気温はマイナス5.8度だったようだ。
昨日は午前中母を松本の病院に連れていく。8時半に迎えに行き、木曜日に松本に行った時に高速の車線規制が解除されているのは知っていたので、昨日は試しにSAのスマートインターから高速に乗るルートを試してみた。地元の道も街の中を抜けるわけではないので空いているし、高速に乗った後も順調に流れていい感じだった。母を乗せているのでスピードは控えめだったが、順調に塩尻北まで走って降りて、19号もまあまあ空いていたので、予定よりも相当早く病院のあるモールに到着した。立体駐車場の3階に入り、そのままエレベータで降りればすぐである。時間的に余裕を持って到着できたので母をトイレに連れて行ってから受付し、先に次回の診察の予約をして、まだ時間があったので1階の食料品売り場に行って母の欲しいものや自分のお昼を買って戻ってきてから診察を受けた。
診察・処置も順調で、その間借りてきた渡辺浩「たとえば「自由」はリバティか」(岩波書店、2025)を読んでいた。これはかなり面白いのであとで書く。診察が終わり会計を済ませて、トイレに連れて行ってまだ11時前だったのでこれなら母にもあまり負担にならなくて良かったなと思う。母に負担にならないと言うことは自分にも負担にならないと言うことでもある。帰りは19号を通って塩尻北インターまで走ったが、結構渋滞していた。この時間になると返って混むのだなと思ったが、どうにもならないと言うほどでもなく、インターで乗ってあとは順調。SAのスマートインターで降りて湖畔の道を通って施設に送り届け、到着はお昼前だった。ほっとした。
一安心して近くのファミマまで行き、エビアンを買って、そのまま車をツタヤに走らせ、「妹は知っている」5巻を買って、家に帰ってきて昼食。ご飯を食べた後横になったらどっと疲れが出てきた。物事が順調に進んでいる時にはうまく行っていると言う気持ちと「このまま行け」と言う気持ちがあるから、そう言う意味で緊張感が続いているのだなと思う。トラブルがあるとそれを乗り越えるために気合を掘り起こしたり対応策をいろいろ考えたり、あまりしたくない種類の決断を何度もしたりしてストレスを感じて疲れると言うことはあるが、順調にいくと順調に言ったなりの疲れがあるのだなと思った。苦労性というものだろうか。まあストレスは少なかったとは思うが。
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「たとえば「自由」はリバティか」。幕末以降日本に輸入されたさまざまなヨーロッパの政治的概念と、日本語に訳されたそれらの概念、つまり日本で現在一般的に用いられている概念とのズレのようなものを考察し論証した内容で、読んでいるうちにどんどん面白くなってきた。
ヨーロッパの元の言語でのlibertyとかfreedomというのはより正確に訳し、また中心概念を取り上げると「奴隷でないこと」ということになる、というのはこれはもちろん読む以前から知っていたが、それがどういうふうにこの概念の決定的な重要性を生むのか、ということについてはあまりよくわかっていなかった。
自分としての率直な感想を言えば、つまりはヨーロッパというのは身分制社会、階級社会だったということである。「奴隷」でないということはいわゆる「自由民」であるということで、逆に言えば「奴隷でない」という「否定形」によってしかlibertyというものは定義できない。奴隷である、ということは主人がいるということであり、自分の意思によって動くことができない存在であるということである。その「奴隷である」ということに対して、ヨーロッパ人は強く否定的であり、また率直に言えば「軽蔑の念」を持っている。「自分は奴隷とは違う、高貴な自由民なんだ」というのが「自由の価値」であるわけである。
ヨーロッパの政治思想といえば「自由と平等」だし、「奴隷だって人間だから人間としては平等なんだ」みたいに日本人は考えがちだが、そうではないんだなと思った。奴隷でないことが自由なのだから奴隷であるということは人間的な価値がないということになるわけである。だから絶対王政には否定的なわけだし、絶対王政を否定して、「全ての人間は自由である=奴隷ではない」ということを達成したことに、非常に崇高な意味があるということになるわけである。
奴隷制度というのは逆にいえば彼らにとっては「自分たちが自由であり高貴であるという自覚」を持つための契機になっているわけで、自由の価値を重んずればこそアメリカでは明治維新の頃まで奴隷制度があったということもできる。逆にいえば現代に続く黒人差別問題の根底には、「昨日まで奴隷だった奴らと同等にされた」という憤懣が背景にある、ということも言えるわけである。
現代のヨーロッパ諸国がロシアや中国、あるいは非民主主義的なイスラム諸国に対して取る軽んじるような態度の背景にもやはり「国民が十分に自由でない」ことが大きいわけで、「価値観を共有していない」というのはそういうことなのだなと再確認した。逆にいえば日本は、ある意味過度なまでに自由なわけで、「価値観を共有している」ということは強くアピールして行ってもいいと思う。戦前日本も1920年代まではそういうアピールにかなり成功していたと思うが、1930年代からの統制かから軍国主義のイメージを必要以上に強く持たれてしまったことは失敗だったなと思う。
で、一方では現代の日本における「自由」の概念には、「奴隷でない誇り」みたいなものはそんなに強くはない、というか「自由でないこと=奴隷であること」だとはあまり考えられていないわけである。自由でない、ということはたとえば手元不如意だという意味になったり、体に障害が起こって思い通りに動かせない、ということになる。つまり、日本において「自由である」ということの意味は、「自分の思い通りに動ける、できる、なる」という部分が強いということなわけである。
そして、ヨーロッパにおけるlibertyの意味には、こういう意味での用法はない、という指摘も大変わかりやすく説明されていた。「お金がないということは不自由ではあるがリベラルではないという意味ではない」わけである。このなんとなく曖昧にされがちな「自由とリバティの違い」というものをきちんと理解することはかなり重要なことだと思ったし、少なくともヨーロッパ人たちと議論する上で踏まえておいた方がいい前提ではあると思った。
日本においての自由はつまり「思い通りになる」ことで、「自由自在」とかもそうだし、通俗的な意味では「勝手きまま」という意味で「そんなの俺の自由じゃん!!」となるわけである。しかしこの意味での「自由」の用法には「俺は奴隷ではない高貴な自由民だ!」みたいな高らかな宣言という要素はないわけで、ガキが屁理屈で覚えたての手前勝手な理屈を振り回しているだけ、ということになるから、日本では必ずしも「自由」というものを「無条件で良いもの」とは捉えてこなかったわけもここにあるわけである。1930年代に自由という概念に対して否定的になってしまったのも、西洋的なlibetyを否定したのではなくて「手前勝手な自由」が否定されたという面は強かったと思う。
もう一つ日本で大きな「自由」の意味は、宗教的というか仏教的・神道的な意味合いで「とらわれのない清らかな心」みたいな意味がある。この辺は「自由自在」というのも元々はそういう意味で、かなり高い境地を意味しているわけである。しかしこういうある意味「解脱」に近いような境地に比べると、西洋的な「高貴な自由」はもっと生々しいものである。「奴隷でない」という否定形にその根拠があるというのがその理由であり、まあ仏教的な意味での「自由」は、すでに「奴隷というものはない」のだから話の拠って立つところが全く違う。
西洋的な意味で、たとえば依存症になっている状態は、その依存しているものに対して奴隷になっていると解釈されるから、自由ではないわけである。何者にも囚われないというのとの違いは、「奴隷でない」ことと「そもそも私を縛るものは本来存在しない」ということの違いがある、ということも押さえておいた方がいいと思う。
で、多くの政治思想を説く論者は西洋のlibertyの本義を解き、日本での自由の理解の浅さを指摘して「日本人は遅れている」となるのが普通だったから、より出羽守チックで嫌がられていたわけだけど、このようにフラットに説明されるとなるほど日本人の自由概念の理解にも弱点はあるなとは思うし、そこは本書の意としていることなのだと思うけれども、それだけではなく、日本人には日本人的な「自由」概念の理解があり、そこにはある種の限界や問題もあるかもしれないが、だからこその可能性もあるのではないかと思ったわけである。
つまり、たとえば現在、表現規制において世界で一番自由なのは日本だと言っていいだろう。それは日本的な自由理解の中に「何をしても俺の自由じゃん!」という理解があるからだ、と言って良いと思う。西欧で性表現の規制が厳しくなっているのは、いわば「性表現を緩めると欲望の奴隷になる」という感覚があるからで、その欲望から子供と女性を守る、みたいなのがこうしたポリコレ的なフェミニズムの論拠だろう。
しかし実際には性犯罪は表現規制の厳しい地域ほど多い、というのは日本ではよく論じられることで、日本もフェミニズムの勢いの強さによってだんだん規制が加えられつつあるのはいい方向には行ってないと思うけれども、ある意味「性犯罪発生の実態」を無視した「概念の暴走」によってこういうことは起こっているわけである。
しかし日本では自由とは手前勝手な自由もありまた宗教的な自由自在さも肯定される部分が文化的に概念に含まれているので、だからこそ自由で多様な表現が可能になっているのだ、とプラスに見ることもできるな、と思ったわけである。
これらの違いという点においては、すでに福澤諭吉が「西洋事情」で述べていて、リバティという概念をうまく日本語に訳せる言葉がない、ということは言っている。その翻訳の試行錯誤についても本書では詳しいのだが、福澤自身が「西洋事情」の続編ではすでに「自由」という訳語を採用しているので、まいっかという感じになったのだな、と思った覚えがあった。この辺のところは本書でも指摘されていて、政治思想史の碩学が指摘するようなことを自分がすでに気がついていたということはちょっと嬉しく感じたりもした。
それはともかく、西欧と日本とのそうした概念の違いを踏まえた上で、日本的な自由の価値についても守っていきたいし、その可能性を広げていきたいと思ったわけである。52/335。
***
https://www.sunday-webry.com/episode/2551460909895023201
「シテの花」最新話、サンデーうぇぶりで連載再開。面白かった。本誌からウェブに映ったのはちょっとショックだったが、新天地でさらに勢いを増して欲しい。楽しみにしたい。
https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912579002911
ジャンププラス、「2.5次元の誘惑(リリサ)」超クライマックス。今回で終わりかと思っていたが、2週間後に「200+1話」があって、それが本当の最終回になるとのこと。この作品は読み始めてからずっと思い入れがあって、肩入れしすぎて展開が自分の望んでる方向と違ってきたときにとても落胆したのだが、なんかそういうふうに振り回されたのもいい思い出、という感じになってきた。199-200話の展開には本当に納得感しかない、という感じ。リリエルは2次元、リリサは2.5次元で本当に「誘惑」で、本当の恋人に出会えるまでの道を導いた「天使」だったのだなという感じ。200話ラストのコマでリリエルが雲の彼方に飛び去っていくのを見て、本当にじんわりした。最後まで楽しみに読みたい。
ガソリンを入れに行って帰ってくる途中、FMでビートルズがかかっていたのだけど、一つ一つの楽器の音が綺麗で、こういうふうには弾けないなあと改めて思う。曲作りのアイデアも豊富で、やはりビートルズは現代ポップスの原点だなと改めて思った。
まあいろいろ忙しくて解決していかなければいけないことも多いのだけど、今日の2作品とビートルズは本当にご褒美をもらったという感じだった。マンガも音楽もやはりいい。
台湾問題と中国:フランスは公式には台湾に言及せず/リンゴを送る/人間関係の面倒臭さの質の違い/ジャンプコミックスを12冊買う
Posted at 25/12/05
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12月5日(金)薄曇り
今の天気を書くために外に出てみたのだが、東の方は曇っていて西の方は割と晴れていて、星も見える。北西の方に月が見えて、薄曇りに隠れてはいるのだが、帰って雲全体に光が広がって、明るい。暦(歳時記カレンダー)を見ると今日は旧暦10月16日だが月齢は14.8で満月。どうりで明るいわけだ。5時10分。
起きたのは4時前だったのだが寝床に入ったのが1時過ぎだったので(例によってソファでうたた寝していた)もう少し寝ようかなと思ってトイレに行って水を飲んだ後もう一度布団に入ったが、どうもあまり寝付けない。まあ時間は短かったけど割とちゃんと寝た感じがあったので無理に寝ることもないかと思い直して30分くらいで起き出した。2階で寝ている部屋が寒いので眠りにくいのかなと思ってオイルヒーティングをつけてみたが、本当にじんわり暖かくなる感じなので木造で窓が広くて熱が逃げやすい部屋ではあまり意味がないかなとか。そろそろ本当に冬だし、寝やすい工夫はしたほうがいいかなとも思う。
昨日は午前中松本に出かけて整体で体をみてもらう。少し早めに出られた感じで、思ったより早めに着いた。いつもこのくらい時間の余裕があると良いのだが。少し気持ち的に吹っ切れた部分があるのでそれは身体にも多分良い影響が出ているようで、割といいのではないかという感じだった。昨日は割とあっさりと終わったので車に戻ってからこれからの段取りを考えたが、結果的にはまず塩尻の農協の専売所に行ってりんごを送ることにした。ナビで検索しても出てこないので近くの大学を入力してそれを目指して行ったのだが、結構いいルートが出てきて大学まではすんなりいくことができたが専売所と大学の関係を位置関係を忘れていて、少し通り過ぎてから戻ることになった。まあそんなにロスはなかったと思うが。
専売所でリンゴを二箱選び、中の人に頼んで配送伝票をもらって記入。リンゴ自体も昨年より上がっているが2件とも九州なので送料も結構高くて、考えていたよりは高くなった。依頼した後専売所の中を見て周り、リンゴと味噌を買った。その後、昔松本に通っていた時のルートを通って19号から20号が分岐する交差点まで走り、角のスーパーによる。ここは整体の近くにあるのと同じスーパーなのだが、客の数が格段に少なく売り場も小さく、またセルフレジもない。以前はここでも買い物をよくしていたのでずいぶん違うんだなと思ったり。トイレットペーパーほか必要なものとお昼を買った。
整体に行ったときに先日関西に行った話をしたのだが、関西と信州の「人間関係の面倒くささの質の違い」みたいな話をした。私の感覚なので一般的にそう感じられるかはわからないが、関西の人の方がよりメンツとか体面とかいうものを気にするというか、そういうものが人間関係の基本にある感じがする。「親切さ」を演出するよりは「自分はこういう人間だ」という部分を大事にしてある意味壁を立てて自分が侵食されないように人と接する、と言えばいいか。だから地雷を踏むと面倒くさい。その人のこだわりを理解した上で謝らないといけないからである。一方で他人に対して結構批判的に見ていて、だから誰かを、特にリーダーを育てようという雰囲気が少ない気がする。まあこれは関西全般のことではないかもしれないのだけど。
ある意味自分のキャラクターというものをしっかり立ててこういう人間として付き合うべし、ということを周りに要求している感じといえばいいのだろうか。まあこの辺りのことはもう少し考えたり観察したり、記憶を思い出したりした方がいい感じはするのだが。
と言うようなことをつらつら考えたりしながら塩尻で高速に乗る。少し前までは岡谷インターと岡谷ジャンクションの間で工事をしていてそこを抜けるのに時間がかかったから下道を走っていたのだけど、昨日は息に反対車線が全くスイスイ動いていたので検索してみたら工事は終わったと言うことがわかったので、乗ることにしたわけだ。ジャンクションより少し先のSAにできたスマートICで降りて地元のツタヤまで走る。ジャンプコミックスを12冊買った。本誌連載が「キルアオ」13巻(最終巻)、「アオのハコ」23巻、「SAKAMOTO DAYS」25巻、「Witch Watch」24巻、「逃げ上手の若君」23巻。「キルアオ」は終わってしまったのは残念なのだがアニメ化もある。ジャンププラスでは「エクソシストを堕とせない」13巻、「サンキューピッチ」4巻、「セイレーンは君に歌わない」4巻(最終巻)、「恋人以上友人未満」10巻(最終巻)、「野球・文明・エイリアン」2巻、「ラーメン赤猫」13巻。それに「ふつうの軽音部」9巻である。
感想はいろいろあるがまたの機会に。
昨日は父の命日だったので帰ってきて昼食を食べた後墓参りに出かけた。風が強く線香があまり火がつかず、メインの墓だけに供えた。江戸時代からの墓碑などいろいろあるので普段は全てに線香を供えているのだが、昨日は代表して供えて南無妙法蓮華経を3回唱えた。もう16年。
***
https://www.bloomberg.com/jp/news/articles/2025-12-04/T6Q2XTT96OSQ00
フランス・マクロン大統領の中国訪問と習近平国家主席との会談の内容。台湾有事問題に直接触れた発言がないのは、日本に対する配慮だろうし、またイギリスやアメリカからもそれなりにメッセージがあったのではないかと言う気がする。そう言う意味では日本としては一安心というところだろうか。
中国がフランスに対して求める第一は台湾問題での自国サイドに立ってもらうということかなとは思ったが、ウクライナ戦争での対ロシア支援はやめないということを承認させるということはあるかもしれない。フランスが求めているのはウクライナ戦争での中国の支援の停止もあるが、貿易赤字の悪化で支持率が下がっていることの方が問題で、中国に対する二国間の貿易赤字がかなり大きくなっているということもあり中国からの直接投資を呼びかけたいということが大きかったのではないかと思う。習近平側もフランスからの輸入拡大については約束したようだ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025120400155&g=int
「中国は引き続き危機に対して建設的な役割を果たすとした上で、「無責任で差別的な非難にも断固反対する」と述べたものの、詳細には触れなかった。」というのは、ヨーロッパ各国からの対ロシア非難に対する牽制ではあるだろう。
台湾問題に関しては今までより踏み込んだ立場の発言はマクロン側からは引き出せなかったようだ。まあ当然だろうと思うけれども。
中国としては西側諸国にありながらも英米とは独立した姿勢を示すことが多いフランスを経済政策などを通じて取り込みたいということはあるのだろうけど、中国自体が経済的にヤバいのであまりそう言う余裕はなく、この辺はメルケル時代のドイツのようにはいかない感じである。国際関係は複雑なピースの組み合わせではあるが、フランスと中国の関係が発火点になって何かが動いていくと言うことはなさそうだなとは感じた。
台湾問題においてはイギリスが「安全保障の真の脅威」と中国を名指ししたり、アメリカも台湾との関係を準公式化するような法案にトランプ大統領が署名したりと中国側に不利に推移しているようには感じる。中国も台湾問題をすぐに動かせないなら国内問題を解決していかなければならないわけで、西側との関係悪化には踏み切れないだろう。1960年代の中国は核開発だの文化大革命だのいろいろめちゃくちゃやっていて、ある意味「無敵の人」の怖さがあったが、現代の中国は一定の金持ちになっているので不必要な喧嘩はしない感じのところもある。台湾侵攻とそのための軍事増強もいろいろ言っているがある意味金持ちの道楽的な雰囲気もあって、条件が揃ったらやるか、みたいな感じなので台湾・日本・アメリカその他の側としては「条件を揃わせない」ことが重要なのだと思う。
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