現代の日中関係の始まりは天安門事件と江沢民政権と考えるべきではないか/東京から戻る

Posted at 25/11/25

11月25日(火)曇り

一昨日は神保町でカレーを食べて帰り、地元のOKで少しつまみなど買って家でバーボンなど少し飲んで寝た。昨日は午前中ブログを書いた後、出かける。地下鉄で大手町に出て丸善へいき、ミュシャのカレンダーと来年のスケジュール帳を買った。最初カレンダーがすごい値段で驚いたが、実家で使っている歳時記カレンダーも2000数百円することがわかって、とりあえず3000円以内という条件で買ったのだが、まあなんでも高くなったなと思う。特にこういうカレンダーは輸入品なので円安の時は高くなるのだよなとブツブツ。

それから呉服橋の交差点に出て日本橋の方に向かい、日本橋の丸善で少し本を見た後、高島屋の地下へ行って味噌カツ弁当を買った。鯖の塩焼きと迷ったのだが、これは当たりだった。まあ鯖の塩焼きは近所の能登屋でも買えるというのもあるが、味噌カツ弁当が副菜が充実していてとてもよかった。

一時期治っていたのさがまた吹き出物みたいなものが出てきて、引っ掻かないようにバンドエイドでも貼っておこうと思って薬箱から引っ張り出したら、どうも30年物くらいの感じで、うまく剥がれない。これはダメだと思い、ゴミを捨てにいくついでに裏のローソンに行ってキズ絆を買ってきた。滅多に使わないものはどんどん古くなる。人間も同じように古くなっているのだが、そのことは忘れている。

少し片付けをしたり洗濯をしたりして、4時ごろに家を出た。近くのローソン併設のスタンドまで車で走って給油。単価は159円で久々に160円を切った。ローソンでコーヒーと甘桃ティーラテホットを買って出発。車の中では例によってずっと「ふつうの軽音部」のセットリストを聞いていた。

道はどうだろう、休日の月曜のせいか、思ったほどは混んでいなかった。三宅坂の合流で少し渋滞し、西新宿の合流でもしばらく渋滞した。私の経験則として、首都高は完全な渋滞の時は左車線の方が速いのだが、割合流れている時は右車線の方が速い。時々判断が変わって車線変更を何回かしたが、全体的には右車線を走っている時間が長かった。石川PAについた時には5時半になっていたので、ラーメンを食べて夕食にした。

その後も順調に流れたが、圏央道との分岐のところで工事なのか事故なのか一時止められた。トイレに行きたくなって初狩でPAに入り、走っているとまた前の車がハザードランプをつけて止まりかけたのだが、路肩に停車している車があった。連休中はこういうことが結構多い。久しぶりに走っての車のトラブルが起こりやすいのだろう。そのあとは順調で八ヶ岳PAまではしり、トイレ休憩だけして地元のインターで降りてスーパーで朝食の買い物などして実家に戻った。8時ごろに到着し、少し日本酒を飲んで入浴して寝た。4週間ぶりの東京、2週間ぶりのドライブは楽しかった。

今朝は4時ごろ起きてしまい、布団の中で頭の中で自分のやりたいことを整理などしていたので、それを書き出していたらもう起きてもいいかという感じになった。6時ごろゴミをまとめて出しに行き、そのまま少し離れたセブンイレブンまで走ってジャンプとヤンマガを買い、お城の近くのファミマまで走ってアフタヌーンを買って帰ってきた。

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朝考えていたことというのは、自分のやりたいことというのはどういうことか、というような話だが、つまりは「今日の世界」ということで、世界はなぜ我々が今見ているような世界になっているのか、ということについて明らかにしていきたい、というようなことである。

その中で最近の日中関係のぎくしゃくについて、今現在自分がどう感じているか、どう考えているかということについて整理していた。

現代の日中関係を考える上で、どこをスタートラインにするのが適切なのかということなのだけど、現代の人々にとってより実感的なスタートを定めるとしたら、1989年6月4日、天安門事件がスタートではないかと思った。

つまりは、江沢民時代・胡錦濤時代・習近平時代の三つの時期が現代の日中関係のベースではないかということである。この時代はつまりは中国が権威主義的な本質をあらわにした時代ということであり、冷戦構造の崩壊によってソ連と同じように東アジアの共産主義国家も民主化されていくのではないかという期待が裏切られて、経済発展に伴いより強固な形で権威主義国家が再建されていった時代ということになる。

日本はアメリカ市場での優位性を徐々に失っていき、中国経済への依存を深め、経済界の雰囲気が中国無しには成り立たないというのが醸成され、江沢民時代以降しばしば切られる反日カードに日本側が右往左往する、という時代である。

1989年は私自身は27歳だが、1980年生まれ、つまり現在45歳以下の人にとって、中国というのは物心ついた時にはすでに今の中国だった、という感じなのではないかと思う。

中国では反日の時代であり、日本ではその裏返しで嫌中・親台湾の傾向が強まった時期だった。ちょうど台湾で親日の李登輝が総統の座についたのが1988年であり、全島に戒厳令を敷き続けた独裁国家という印象から大きく衣替えをしたのが同じ時期ということになる。彼は台湾出身の本省人であり、それまでの蒋介石の国民党の大陸反攻の考えを捨て、両岸関係を維持するという方向に舵を切ることになる。それは中国共産党にとっては台湾統一の彼岸に対する拒否のメッセージであったので、中国はその後「台湾独立阻止」が大きな外交テーゼとなるという大変化があったわけで、両岸関係も新たな対立の時代になったわけである。

もちろんそれに至るには経緯はあるわけで、中国や日本の左翼の主張するような80年以上前の話もあるわけだけど、まずはここ36年間の歴史をきちんと振り返ることから日中関係を理解することを始めるのが適切なのではないかと最近感じているわけである。

今朝のところはここまでで。

中国動画ミームの隆盛と「高市政権ルネサンス」/京都の歴史的繁栄を地球科学で解く/火の用心の確認漏れによる帰宅とワイヤレスイヤホンの紛失未遂

Posted at 25/11/24

11月24日(月・振替休日)薄曇り

昨日はブログを書いてから準備して出かけたのだが、思ったより遅くなって出かける前に指さし確認をするのを忘れ、車で高速に乗ってから火を消したかとか冷蔵庫の扉がちゃんと閉まっているかが気になってしまい、PAに入って占ってみたら大丈夫だとは出たのだが、やはり気になると次のインターで降りてすぐ逆戻りし、再び高速で地元に戻って家まで帰って確認したのだが、結局何事もなかった。高速代940円と1時間を無駄にしたが、出かけている間中気になっているよりはましだ、と割り切ればいいかなとは思った。

さてこれでは時間的に遅くなって高速が混むと嫌だなと思ったのだが、昨日は基本的に順調で、八ヶ岳PAでトイレ休憩、次に釈迦堂PAでトイレに行ってすき焼き弁当を買ったのだが、どうもトイレが近くなって笹子トンネルを越えた初狩PAでもう一度トイレに行き、石川PAでもやはりトイレに行って、かなり早く家についた。たまりにたまった郵便物を整理し、お昼のタイミングは逃したが、家で弁当を食べて少しゆっくりして、銀座に出かけることにした。

4時ごろ出かけ、もう暗くなりかけていて、結構寒い気がしていたので長野県と同じ服装で出たが結構気温が高かったのか、少しウザったい感じがした。地下鉄に乗ってそれなりに混んでいたのでマスクをし、ワイヤレスイヤホンで「ふつうの軽音部」に出てくる曲のリストを聞いていた。

日本橋に乗り換えで降りたとき、もうマスクはいいやと思って外したら、左のイヤホンが引っ掛かって飛んで落としてしまった。慌ててあたりを探すが見つからない。若い男性が声をかけてくれて、一緒に探してくれたのだが見つからず、お役に立てなくてすみませんと言われたがいやありがとうございます、と言って分れた。そのあとも少し探したのだが見つからず、かばんの中に落ちたかもと思って椅子に座ってさぐってみたら、小ポケットの中にイヤピースが外れた状態であるのを見つけて一安心。さらに探るとイヤピースも出てきて、いやいやほっとした。ワイヤレスというのはこういうことがあるから怖いな、と再認識して、「曇天」を聞いた。

銀座線で銀座に出て、地上に出たがちょうど歩行者天国が終わる時間で、歩道が混み始めていた。教文館へ行って少し本を見たが、店内が混んでいる。3階のキリスト教書も混雑していたし、4階のエインカレムに行ってみたらそこも大混雑、カフェは開いていたが順番待ちの人たちが座っていて、これはダメだと思って外に出た。中国人は確かに少なめだったかもしれないが、聞きなれない外国語を話す人たちが結構多く、また欧米人も多い感じがしたが、何より圧倒的に日本人の人出が多く、三連休の中日の夕方にくるところじゃないなと思うなど。紅葉の高尾山の混雑も大概だったようだが。

https://x.com/aki_523kyy/status/1992463272763904352

人ごみをかき分けて有楽町駅まで歩き、山手線で神田に出て、中央線に乗り換えて御茶ノ水で降りた。聖橋の方に出たつもりだったのに御茶ノ水橋の方に出たので丸善にはよらず、駿河台の坂を下って行った。

神保町に出て最初に東京堂へ行き、ちょっと気になる本があったので他を見てから買おうと思って書泉グランデでマンガを見たが、とりあえず買いたいと思うのはないなと思い、東京堂へ戻って藤岡換太郎・原田憲一「扇状地の都」(小さ子社、2024)を買った。

https://amzn.to/3KiUw3C

京都はなぜ1000年の都になったのか、ということを地球科学から読み解く、という発想は面白いと思った。四神相応とか風水に叶った土地だというのは以前から読んだことがあったが、鴨川・高野川・桂川の複合扇状地であるから、という発想はしたことがなかったのでこれは興味深いなと思った。逆に言えば江戸・東京や大阪は三角州に発達した都市だということになるし、世界の各都市もいろいろな分析ができる気がした。

扇状地である利点は水はけがよいということと地下水が豊富であるという二点があって、この二つが両立するというのは確かに利点だなと思う。大阪は水がまずいというし、江戸・東京もわざわざ多摩川の上流から水道を引いたわけで、この点に関して言えば京都は優れている。ほかに利点がいくつも挙げられていて、この観点の話は面白いなと思った。

こういう地球科学的な話が文化に影響している例として、黒土地帯(チェルノーゼム)の分布というものもあるなと思う。

https://x.com/nobuyo5696/status/1992585086148206724

グルジアの料理はあまり知らないが、確かにアルメニアは料理が豊富だしワインも有名だ。それの背景に肥沃な土地があるというのはあるのかもしれない。グルジアは国土の空白地帯だというのは確かに指摘されないと気が付かないなと思う。そういう意味で恵まれた国、恵まれた場所というのは確かにあるなと思ったし、今日ともまたその観点から見てみるのは面白いだろうなと思った。

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https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/5a2b098afb76c05cdb514bc58e2cf599b141b9ed

高市首相の台湾有事発言をめぐって中国が威圧を強める中、日本人がどのように反応したか、をめぐる論考が面白かった。

https://x.com/KS_1013/status/1992616985801511281

「会談後に公開された映像には、劉局長がポケットに手を入れたまま日本側代表団と向き合う動画が含まれていた。当初、この映像は外交儀礼上の振る舞いとして報道されたにすぎなかったが、公開後、一般ユーザーが数秒間の場面を切り出し、字幕・加工音声・編集効果を加える形で短尺動画化し、SNS上で急速に流通し始めた。」

「利用者による二次加工を通じ、映像は

外交儀礼上の記録 → ネット文化における素材(ミーム)

へと構造的に転化した。すなわち、元映像に付与された一次的評価である「無礼な態度としての外交行動」という意味付けは、SNS上での編集・流通過程を経て、「嘲笑・風刺の対象として消費される二次的コンテンツ」へと乗り換えられたのである。」

これは私たちにとっては見慣れた風景なので、特に新しいものとして考えてはいなかったが、言われてみると世界的に見ても結構特異性のある文化なのかもしれないとは思った。中国外交部のテンプレ威圧文章を誰でも改変して書けるようにするのもあったが、外交的威圧を無効化しむしろ野暮な奴らだと笑い飛ばす文脈に転換するわけである。


「この反応形式は、日本社会が長い時間をかけて形成してきた「過剰に揺さぶられない情報処理の態度」を反映している。具体的には、次のような行動様式が見られる。

・外部から挑発的・攻撃的な表現が来ても、反射的に応戦しない
・映像の意味を必要以上に大きく受け止めず、距離を置いて処理する
・緊張をそのまま拡大させず、編集という形式で“社会的に中和”する
・政治的対立を不必要に煽らないという共有された文化規範が働く

この態度は、単なる消費的ユーモアではなく、情報を自律的に制御し、社会内部で緊張を均衡化する行動様式と位置づけられる。挑発を挑発として増幅させず、あくまで冷静に再解釈することで、緊張が社会に蓄積せず循環する仕組みが成立している。

国際政治の観点から整理すれば、これは国家の軍事力や政府声明に依存しない形の、「市民による非公式の抑止力」と解釈することができる。」


これはおそらくはかなりさまざまな論点を含んでいると思う。日本における風刺というものの役割とその変遷みたいなものは考えてみるとたくさんあるだろう。

風刺というものはもちろん古くからあるが、それらが歴史的に残っているものとして有名なのは、たとえば「建武の新政」の時の「二条河原の落書」だろう。あれは政府の混乱や身分秩序の紊乱などを風刺したもので、当時の日本人にとっては相当面白く感じられたに違いないと思う。

次に思い出すのは江戸時代の太田蜀山人などの狂歌で、「世の中に蚊ほど煩きものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず」みたいなものである。これも直接的にではなくダブルミーニングで幕政を批判しているわけで、真面目一辺倒の松平定信政権を笑い飛ばそうというものだった。

少なくとも江戸時代には幕府側の政策に対して市民側からそれを表だって批判するのではなく違う話にして笑い飛ばすことでガス抜きをする、という文化はあったわけで、それは戦時中でさえ「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」というポスターの工の字を消して「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」とし、応召や勤労動員などで男が不足した戦時下の社会を笑い飛ばす形で批判したわけである。

外国の風刺は直接的に相手に刺さるような風刺が多く、たとえばリア王の道化の例に見るように風刺は生々しい。しかし特に近年のミーム動画はそのような生々しさを敢えて避けて、外交上の意味を無効化することを面白がっているところがある。

このような考え方の始まりは古くをさかのぼることももちろんできるが、1980年代のいわゆる「面白主義」の影響が非常に大きいように思う。

面白ければ何でもいい、というのは確かにある意味よくないことだし、フジテレビの「面白くなければテレビじゃない」も近年は強く批判されてきているけれども、それはある意味弱者を笑いものにする部分があったということはある気がする。

しかし、こうした外交動画のミーム化においては「中国は理不尽にふるまう横暴な暴君」という前提があり、それを笑い飛ばすことは倫理的に正しい、と考えられているし、それは世界的に見ても進出を強める中国に対する反感や警戒があるからこそ受け入れられているという面はあるだろう。戦後のアメリカ帝国主義があちこちで風刺の対象になっていたのとある意味同じ文脈である。

この局面においては「面白主義」はむしろ正義のバックアップを受けて加速するわけだが、「中国は本当に危険な存在である」という認識も共有されているから、批判を行き過ぎさせる方向に行くのではなく、「政治的対立を不必要に煽らない」という自制が伴うので、より世界的な共感を得やすくなるということもある。

こうした日本社会の柔軟な反応は権威主義国家である中国の硬直した反応をさらに加速させる面はあるが、彼らは「怒り」というものの力を過信しすぎていて、「笑い」の力の恐ろしさを過小評価しているような気がする。

日本の場合は笑って対応し社会を落ち着かせていくが、そうこうしているうちにたまりにたまった怒りのマグマが急に爆発することはあるのだが、そういう文化的文脈は外国から見たらわかりにくいだろうとは思う。ただ、そういうものが高市政権に対する圧倒的支持につながっているわけで、中国の戦術は全く逆効果だとしか言いようがない。

こうした状況になるのは日本の成熟した民主主義環境がある、というのはその通りだと思うのだが、それだけでなく政治的な権力構造の威圧に対して、「笑い」を含む文化の力で市民社会的なバランスを取るという社会構造の強さが古くから形成されていた、ということはあるのではないかと思った。

しかし最近、特に岸田・石破政権下では中国を筆頭とする粗暴にふるまう外国勢力への阿りやフェミニズムやジェンダーなどの「新しい権力」に対して屈従する姿勢が強く、国民の間に不満が鬱積していたということはあるのだろうと思う。それが高市政権になってある意味文化的なルネサンスにもつながっているのではないだろうか。動画ミームの隆盛もその一環ではないかという気がしている。


会える人には会える時に会っておけ/「ふつうの軽音部」87話「春浅き日々を思う」を読んだ:春浅き日々の甘酸っぱさからの急展開と「さまざまなふつう」に逃げずに向き合うこの作品の凄さ

Posted at 25/11/23

11月23日(日・勤労感謝の日)晴れ

今日は勤労感謝の日、戦前であれば新嘗祭。昭和と令和における一年最後の祝休日。明日はその振替休日で三連休、ということだが。

昨日は仕事の後、高校(転校後・地元)時代の友人に誘われて数人で飲んだ。私と彼とは同じクラスなのだが、その同じクラスの人がもう一人と、その人の奥さん。それから同じクラスの人の部活仲間、というたまたまできたセッションみたいな飲み会になった。最初は奥さんといろいろ話していたのだが、彼ら夫婦が今障害者福祉の支援をいろいろやっているという話で、やはり母を入所させて自分が当事者家族でもある高齢者福祉に比べると障害者福祉についてはあまり知らないなと思う。グループホームというのも認知症の人たちのものはもちろん知っていたが障害者のグループホームがあるとかそういうことは初めて知った。なんだかこちらがあまり知らないので取り止めのない内容になってしまったが。

二次会では旦那の方と喋っていたのだが、AIとかゲノム分析の話になって(彼は東工大卒)、ゲノムの解読が完成したというがそれはどういう意味なのか、情報がわかったということか再現ができるということか、同じ遺伝子情報を持っていても例えば一卵性双生児であれば遺伝子情報は同じでも違うパーソナリティになるとか、そんな話をなんとなくしているうちに終わったという感じ。私も今日は車で東京へ行くということもあり11時には解散するという健全な飲み会だったが、最近は10月末に大学時代の演劇仲間と、8日に転校前の高校の同窓会、15日に母の卒寿祝いで一族、昨日は高校同級生と、と週末ごとに自分の人生のいろいろなステージで付き合った人たちと会っていて、来週末は教員時代の人たちと会う。

会える人には会える時に会っておけ、と思う、というのは昨日の同じクラスの人との飲みも結構久しぶりで、それはクラスの中心で飲み会とかも呼びかけていた人が亡くなったからで、会いたいと思う時には相手はなし、みたいなことは常にあるのだよなと思っているということもある。昨日会った人たちはみんな現役でいろいろ活動をしていて、やはり同じ世代が頑張っているというのはこちらにとっても力強くはあるよなと思った。

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https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912231080099

ジャンプ+で「ふつうの軽音部」87話「春浅き日々を思う」を読んだ。

同時に来月4日に発売の単行本9巻の書影も明らかにされた。こちらは順当にプロトコルのドラマー、遠野なのだが、スティックを回してイキっていて実に遠野らしくて良いと思った。

https://amzn.to/49G1dap

Amazonではまだ書影が出ていないようなので、一つ上のリンクから今週の更新に飛んでいただくと見ることができます。以下今回の内容に触れていますので、気になる方は上のリンクから先に本編をお読みください。

今の展開は鳩野たち谷九軽音部とレイハの通う七道高校軽音部との合同ライブが始まっているというところである。

鳩野と同じ中学ながら中学の時にはほとんどつながりがなかった水尾・レイハと、幼馴染の川上純とのエピソードは、谷九高校の軽音部仲間の野呂が純に絡まれている場面に鳩野と水尾が遭遇した、というところから合同ライブ編の重要な背景として通奏低音のように響いていた。

先週合同ライブに遅れてやってきたレイハは理不尽なほど不機嫌な様子で、谷九のあまり上手くない1年生バンド・トゲトゲピーナッツの演奏をディスる。そしてそれを鶴に咎められ、一触即発の状態、というところで1週休み、となっていた。

https://shonenjumpplus.com/episode/17107094912077655973

先週はだから本編は進まず、ただ少年ジャンプ本誌に出張掲載されていた新入生説明会で中学生の前で「曇天」を歌う回が更新されていて、これがとても良かったので毎日「曇天」を聞いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=n5TG3Fxzft0

今週は鶴とレイハの対決場面からだったが、「青春以外全部ゴミ」と言い切る鶴にああ、こいつには何言っても無駄だな、という顔をしたレイハが「了解っす!すいませんでした!」と謝って相手をするのを打ち切る。そこに鳩野がきて自分たちのライブを聞いてくれ、というのだがレイハは自分の演奏が終わったから得るといい、そこに鷹見が絡んできて「全部見てから帰れよ」という。鷹見としては、谷九の軽音部をバカにされてそれで帰られるのが我慢できないということで、彼としては筋が通っているのだが鳩野はそんな鷹見の意図はわからない、というか自分の演奏をレイハに聞いてもらうことしか考えていない、いわばやや自己中なノリになっていたから、「なんか鷹見が急に絡んできた。何こいつ怖・・・」となる。しかしレイハは鷹見を見て「ハルくんのバンドの人だよね。ハルくん今日はライブするの無理かもね」という。

それを聞いて鷹見と鳩野は「えっ?」となり、彼らの会話を聞くでもなく聞いていたカキフライエフェクトの野呂もどうした?という顔をするし、他のプロトコルメンバーの田口と遠野もあまりに水尾が来ないので探しに行こうと話をしている中、ページラストのコマで顔を覆ってベンチに座り込む水尾が描写されていて、只事ではないことが起こったことが暗示されていた。

この辺の深刻な表現に、レイハの一見傍若無人な振る舞いを絡ませてくるのが絶妙だなと思う。

場面は15分前に遡り、前86話で「何かあったんか」という水尾に「言いたくないから言わない」というレイハの会話の続きが描写されていた。

「聞かない方がいいと思うよ」というレイハに「教えてくれ、頼む」とたたみかける真剣な水尾の表情。レイハの「言わない方がいいと思うけど仕方ない」という表情の後、レイハは衝撃の事実を告げる。

野呂を殴り倒すほどぐれていたレイハと水尾の幼馴染である川上純が、特殊詐欺の受け子で逮捕されたというのである。暗い顔で水尾に「わかる?あいつ犯罪やって逮捕されたんだよ」というレイハに、最悪のことを聞いてしまったと呆然とした顔をする水尾。この水尾の表情の、特に目の周りの描写がすごい。これは鳩野が鷹見の演奏を聞いて「この勝負は私たちの負けだ。でも私はお前に負けることを許さない」という表情をした時の描写と同じで、鉛筆のかすれた塗りのような線が使われていて、場面にとても合っていた。

「もうあいつは私たちと生きてる世界が違うんだって。私はもうあいつのことは考えないようにしたから、ハルくんもさっさと忘れた方がいいよ」というレイハだが、落ち込む水尾に背を向けて歩き出すレイハの表情は「残酷なことを告げてしまった」という後悔も感じられて、驕慢だとしか描写されてこなかったレイハの思いがけず真摯な心のひだが描写されていてとても良かった。

レイハには、自分の告げた内容が水尾を心の底から動揺させるということがよくわかっていた。だから「今日はライブするの無理かもね」と言ったのだということがここで明らかにされたわけである。

そこからは過去編、純と水尾とレイハの小学生時代からの「春浅き日々」が描写されていく。寡黙で孤立しがちな子供時代の水尾に常に声をかけていたのが純だった、ということが明らかにされ、そこにレイハも加わり、仲良し三人組が形成されていく。中学時代には常に一人だった水尾が純に誘われてバレーを始めたことを、レイハは「でもハルくんなんか変わったな。明るくなった気がする。全部純ちゃんのおかげだね」と思っていることが描写されていて、水尾にとって純がどんなにかけがえのない存在だったかがわかる場面では、つい涙ぐんでしまう感じになった。

中学生になった仲良し三人組が一人の女子をめぐってどちらと付き合うのか、みたいな感じになっていたさなか、純の事故が起こる。病院に駆けつけた二人の前で純は気丈に振る舞うが、

というところで今回は終わりになった。

その純が、犯罪の片棒を担いで警察に逮捕され、犯罪者になってしまったという事実は、水尾にとっては自分の足元が崩れていくような衝撃だったことがよくわかる。

***

この作品では、今までも様々な「ふつう」が描写されてきた。主人公自身鳩野自身の生い立ちや両親の離婚、陰キャなのにバンドを始めたことによって起こる様々な困難。桃が性的マイノリティ(Aセク)であるが故に起きた友人との行き違いと諍い。コンプレックスを克服するためにギターを練習したものの鷹見の地雷を踏んで振られ、さらにヤケになった彩目。同性愛者であるために引っ込み思案でいろいろな縁が切れていき、自分を守る壁を乗り越えるためにバンドを始めたたまき先輩と、バンドに打ち込むしかない生き方しかできない兄に憧れたのに兄を傷つけるようなことを言ってしまってそれをずっと引きずっている鷹見など、さまざまな「ふつうの高校生」が描写されてきた。

この作品の良いところはそうした現実の高校生たちが抱える様々な困難を社会問題を炙り出すというようなスタンスではなく、全て「ふつうの」ことだと言ってしまっているところにあるのだと思う。

ただ、それにしても今回のように、「犯罪に手を染めてしまうふつうの10代の少年」が描かれるとは思わなかった。少年犯罪の描かれ方というのは「ギャングース」のように、もうそこでしか生きられない少年たち、社会から疎外された存在である彼らを、市民社会とは「別の世界」として描くという感じが多かっただろうと思う。

これからもさまざまな「ふつうさ」が描かれていくだろうとは思っていたけれども、ふつうに生きてきたふつうの少年が「グレてしまい」「犯罪者になる」というのはやはり彼らの世界にとっては大事件なわけであるけれども、そのセンシティブさを乗り越えてこれを取り上げるというのは、「ふつうの」と題した作品としてはやはり冒険的なところがあるとは思う。

ただ、コメント欄に「ふつうに犯罪に手を染める奴なんてたくさんいるのにこれで「ふつう」とはどういうことだ」というなんて、よほど恵まれた育ちなんだろうな」みたいなものもあったのだけど、ある界隈においてはそういうことは結構ふつうだったりするわけである。

私も教員をやっていた経験があり、底辺校と言われる学校にも勤務したことがあるから、彼らの日常と犯罪との距離が自分のそれまでの常識では考えられないくらい近いことは感じたことがあった。

マンガというものは、ジャンルがある。学園ものとかバンドもの、犯罪者もの、警察もの、それぞれ別のジャンルで、別の正義がそこにあったりする。だから、そのジャンルを一般的な枠を超えることは違う正義の領域に入ることであり、それこそ日本的な民主主義的正義と、中国の大国主義的な正義が衝突する場面に入るような困難さがあるわけである。

しかし、現実の高校生活というものは学園ものみたいな展開ばかりがあるわけではなくて、やはりそうした衝撃的なことも起こったりはするし、その中で「ふつうに」生きていく生徒たちの姿もあるわけで、この「犯罪を犯してしまった友達との関係」というかなり困難な話に逃げずに取り組む姿勢、「さまざまなふつうに逃げずに取り組む」ところが、この作品の凄さだと改めて思っているところがあるわけである。

今までの展開では、鳩野の歌がそれらの困難を乗り越えていく大きなきっかけになることが描かれてきたわけだけど、こういうことをどのように扱い、どのような展開でこの場面を切り抜け乗り越えていくのかは甘利想像がつかない。ただ、レイハのもたらした衝撃の情報に対してレイハは「忘れることにする」という対応を取ると宣言したわけだが、水尾や彼のバンドメンバーである鷹見たち、また水尾に対する恋心込みの友達である鳩野や、純絡みで仲良くなった野呂たちがここにいるということは、鳩野だけの活躍によってこの場面が乗り越えられていくのではないだろうということが暗示されていて、その辺りも気になるわけである。

以降の展開がより楽しみになった「ふつうの軽音部」だった。

保守とリベラルの国内対立より中国やムスリムとの断絶の方が遥かに深く大きい/ガソリン値下げと中央本線諏訪開通120周年/とりあえず庭に出てみる

Posted at 25/11/22

11月22日(土)晴れ

昨日は午前中ブログを書いた後でかけて、ホームセンターに行ってサンダルを買った。一昨日整体で目の疲れを指摘され、割と「ごちゃごちゃ考えてしまってなかなか動けない」みたいな話をしていたら、「そういう時はとりあえず庭に出てみたらどうですか」と言われ、なるほどと思ってすぐに庭に出られるようにサンダルを買っておこうと思ったのだった。

実際に買って庭に出てみると、サツキの上に落ち葉が落ちていて、特にカエデの落ち葉は細かくてサワサワする。それを取り除いていくのだけど、こういう仕事というのはなんというか風情があるなと思った。まあそういう風情を感じると良い、ということではあるのだが、やり残している庭や畑の仕事のことが気になってしまうという一面もあり、ただいろいろな意味で強制的に心を動かすという側面はあるなと思った。

ホムセンの後クリーニングを出しに行ったが、かなり溜まっていたので結構な金額になった。シャツ一枚の料金が220円から300円に上がったのが痛い。金が仇の世の中である。

https://amzn.to/4o6lKs1

それからツタヤに出かけてマンガを買った。「ブルーピリオド」18巻、「織田ちゃんと明智くん」5巻、「GIANT KILLING」68巻、それにネットで読んで少し関心を持った「数学であそぼ。」のそこにあった一番若い巻の11巻を買った。ないのがあったのでもう一つの書店まで車を走らせ、そちらで「刷ったもんだ!」13巻を買う。今週末は連休なので月曜発売のスピリッツが出ていたからパラパラと読んだが単行本を買っている作品は掲載されてなかったので買わなかった。隣のスーパーでお昼を少し買って帰宅。帰着したら12時半を過ぎていて、思ったより時間がかかった。

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今朝起きたら4時半で、少し早いなとは思ったのだがまあ久しぶりにこれくらいの時間に起きるのもいいかと思って起きることにした。新聞が来ていたので見出しを見ると「ガソリン値下げの動き」が一面トップ。関心のある記事だから少し読んだが、元売りに対する補助金が10円から15円になったのが13日で、27日にさらに5円上積みされるとのこと。先週末からガソリンが下がっている印象があったのは、これに対応する動きだったということのようだ。ただスタンド経営者の声としてはまだ反映されていない時期の仕入れが残っているが、周りが下げてるから値下げせざるを得ないから仕方ない、という声もあるようだ。先週の土曜に入れた時は162円だったが、今日はどうなっているか。これから給油に行くので確かめてみたい。

金曜日の新聞もついでに見たが、プラスチックの分別を強めたことで、諏訪湖を囲む2市1町の行政事務組合の中で燃やすゴミの量が減少したとのこと。人口減で減っている部分もあるようだ。また焼却を利用した発電量は減少しているが売電価格が上昇しているので収入は増えたとのこと。いろいろ工夫された結果は実っているようである。自然破壊の再生可能エネルギーに頼らないでの発電は増やしていけると良いということだろう。

今年は中央線の富士見ー岡谷間が開通して120周年なのだそうだが、120年前は1905年、日露戦争が終わった年である。戦争が始まって工事は中断されたが、地元の要望で鉄道債を地元が負担することで工事が継続された、というのがへえっと思った。当時は養蚕業や製糸業が盛んな時期だから、一刻も早く開通させたいというのはあったのだろうなと思う。中央線の開通までは鉄道を使って東京に出るためには霧ヶ峰や和田峠を越えて上田の方に出る必要があり、明治16年生まれの永田鉄山が小学生の頃に父を失って軍人になっていた兄を頼って東京に出る際に、家族で山をこえて上田に出たという記述を読んだことがある。

ほぼその10年後に諏訪からも鉄道で東京に出られるようになったわけである。写真も出ているが各駅の開業の式典もかなり華やかで、期待が盛り上がっていたのだなとは思うが、上諏訪駅は当時の街の中心からは離れたところに作られていて、やはり陸蒸気の煙や火花を嫌う人たちはいたのだなと思う。また茅野駅は当時の永明村にできたが永明村塚原と宮川村茅野で駅の取り合いがあり、駅が永明村に作られ駅名は茅野になるというややこしいことになったという話も聞いたことがある。最終的には市の名前が茅野市になったわけで、鉄道の影響力は大きい。この辺りは以前書いたことがあるようには思うが。

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郵便局へ行って先日の関西行きのお礼の手紙を出し、職場で少し必要なことをして、隣町まで走ってガソリンを入れて帰ってきた。結局162円で変わらず。明日東京に行く予定なので、東京でのガソリン価格も気になるところだが、訪日観光客が減っているという話を聞いて、銀座に出かけるのも少し楽しみになっている。

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高市総理は就任以来的確な手を次々に打ってきていると思うが、台湾有事発言で勇足をしたという意見もなくはない。ただこれは朝日新聞の見出し詐欺みたいなこともあったわけだからこれもまた朝日と中国側の「支持率下げてやるww」の自作自演ぽい感じも出てきている。いずれにしても日本側は動ずることなく適切な政策を掲げて実行していけばいいだけのことだろうと思う。

https://x.com/syatekiya931/status/1991770236564213968

面白いと思うのは、日本やアメリカなどの先進国において左右の分断が起こっているということについてなのだけど、アメリカは福音派などの右派が割とカルト化してるっぽい感じがあって、wokeがヘゲモニーを握っている左派と宗教戦争の様相を呈してきている感じはある。しかし日本の場合は特に左派に言説だけは過激な人が多く、また多くの暇な連中が動員されてデモなどをやっている感はあるにしても、実際に学校教育で受けてきた戦後教育の根本はそんなに左右の間で変わりはない感じはまだ強い。

左派はどうしても憲法カルトとか平和カルトとかジェンダーカルトとか反原発カルトとかの集合体になりがちだけど、そこまでカルト的な方向に走らないにしても自分はネトウヨじゃない、リベラルだ、と思っている人は割と多いだろうと思う。逆に右派も自覚的な保守右翼を名乗っている人はそんなに多いわけではなく、なんとなく右派リベラルみたいな感じで、そういう人が高市政権支持の主流であり、また日本人全体でも多数派なのだろうと思う。

で、結局、高市政権憎しのあまり中国のいうことが正当だと主張して「中国が台湾侵略を正当化するために高市政権を攻撃している」という前提になる当たり前の事実とかに目を瞑り、台湾も自分たちのことは自分たちで決めるとか中国が怒りそうなことを言い出したりするところがなんとも言えない。つまりそういう左派の人たちも結局は中国の論理というものを理解はしていないということになるわけである。

日本の右派と左派との間でそれなりに議論が成り立つのは、日本のリベラルは保守派とは実は価値観を共有しているからであるわけだ。民族自決とか民主主義とかを双方とも否定はしていない。

しかし中国政府・中国人たちとは実際には全く価値観を共有はしていないわけで、だから「日本も中国の一部になったほうが幸せだ」とか、「日本はアメリカに騙されている」とか馬鹿げたことを言ってきて、そんな論理に付き合ってはいられないとこちらは感じるわけで、だから議論自体が成り立たないわけである。本当の断絶は戦後民主主義がある程度徹底している日本人と共産主義的全体主義・中華帝国主義の中国政府や中国人との間にあるということを、なぜか左派は自覚していないわけである。

これはムスリムなどに対してもそうで、彼らが日本で土葬をさせろとか公道の真ん中で礼拝を始めたりするのは真っ向から日本を含む「非イスラム世界の秩序」に対して挑戦しているわけであり、理解を求めての行動ではないわけである。だから共有できない価値観を持った集団といかにこの地球上で生きて行くかという問題になるわけで、当然ながら「棲み分け」というのは一つの有力な考えであるべきなのだが、雑居混住をイデオロギー的に推進したい左派にとってはそこで起こる困難を無視しているところがあり、その無理解に対して抗議の声が上がると排外主義だ、レイシストだなどと騒ぐわけだが、問題の本質を全く理解していないかあえて社会を破壊しようとしているかでしかないわけである。

https://www.sankei.com/article/20251120-5JOX4FZXZVH3JBDCDG6TWLI2FE/

現在の高市内閣の方針のように、日本の法律に従って生活する人たちは歓迎し、法律を破るような人たちにはお引き取り願うというのが現実的で常識的な線であって、その一線は左右とも守るべきだと思う。リベラルというより左派の革命志向の人たちは現状の日本の破壊に向かう人たちが一定いるのは確かで、それらを犯罪的な破壊行為につなげるのではなく、言論の場でやっていくべきだというルールは左右とも遵守していくべきだろう。

woke的な法律が部分的に成立し始めているのは食い止めなければならないし、改悪されたものは改正していくべきだと思うが、教育のあり方も含めその先に見据えるのは日本が将来どんな社会になると良いかというイメージであり、それらをめぐっての議論が展開されていくべきなのだろうと思う。


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