「リベラル」という言葉の栄光と汚辱:リベラルという言葉の混乱をいろいろな面から考えてみる/「政策」について:高市早苗「国力研究」と自民党衆院選パンフレット政策集を読む
Posted at 26/02/12
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2月12日(木)曇り
昨日は建国記念の日で、いろいろなことがお休みだったから午前中かなりゆっくりブログ/noteを書いて、更新してからありあわせでご飯を食べ、午後車で出かけてツタヤへ行って高市早苗編著「国力研究」(産経新聞出版、2024)を買い、スーパーに走って夕食の買い物をして帰った。
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これは以前からそうなのでが、現在も問題になるのが「リベラル」という言葉の意味する内容である。現在の「左翼リベラル」というような使い方が出てきたのはいつ頃からかはっきりとした記憶はないのだが、冷戦時代、つまり昭和の終わり頃までは社会党や共産党に対して使われる言葉は「革新」であり、自民党に対して使われるのが「保守」だった。だから1970年代に自民党がロッキード事件などをきっかけに議席を減らし、過半数ギリギリになった時代には、その国会の状態は「保革伯仲」と言われたわけである。
現在のように立憲民主党だけでなく社民党や共産党まで下手をすると「リベラル」の範疇に入れられるのはここ10年くらいのことかと想うが、新聞などで用法を調べてみないとはっきりとは言えない。
日本において、基本的に「リベラル」というのは「封建的」の対義語として使われてきた時代が長いとおもう。つまり、「うちの親父頑固で古臭くてさあ」の対義語が「うちはリベラルだから」であったわけである。もちろん、この「封建的」の用語も江戸時代的でも「御恩と奉公」みたいなニュアンスでもないので正しくはないのだが、漠然と「古臭い昔の考え」について「封建的」と言われていたわけである。今流行りの言葉で言えば「家父長制的」という言い方になるだろうが、当時はそんな洒落臭い言葉は使われなかった。まあ逆に言えば上野千鶴子氏らがそういう言葉遣いを引っ提げて登場したことで注目を集めたというようなことである。
ついでに言えば、「革新的」が「左翼」であるということを指すようになったのも戦後のことで、戦前に「革新」といえば、国家主義的に国家運営の合理化を進めようとする人たちのことを指し、岸信介らが「革新官僚」と言われていたわけである。平成になってから近代氏の立場からそういう指摘がされるようになったこともあったからか、左翼に対して「革新」という言葉が使われなくなり、代わりに使われたのが「リベラル」であったように記憶している。
本来の日本におけるリベラルという言葉の用法はそういう意味で「自由主義的」、「進歩主義的」、「明るい近代的な考え方」みたいな意味で使われていたわけだが、戦中・戦後は政治的にはあまり使われなくなった。それは戦時中(というか昭和のある頃から)自由主義的であることは反国家的であることだとみなされたり、戦後は共産主義・マルクス主義の言論が敗戦と同時に言論界を風靡したからで、主導権を握った左翼言論人は彼らに否定的な自由主義的な言論人を「オールド・リベラリスト」と読んだわけである。これは「オールド」に重点があるわけで、すでに「リベラリズムは古くさい、これからはコミュニズムやソシアリズムの時代だ」と考えられていたわけである。
戦後民主主義というものはこの時代に育っているので、色濃く左翼的な影響を受けているし、日本の共産主義がコミンテルンの32年テーゼに強く影響されたために天皇制を絶対主義と見做して強く否定し、日本の国家体制自体を悪であるとみなす風潮が強くなったわけである。
ただ、当然ながら多くの国民がそれに同調したわけではないが、当時の「意識高い」若者たちがそうした思想に取り込まれていったことは事実であり、そうした人たちが現在の「老害左翼」の起源でもある。
当時の「オールド」リベラリストたちはそういう意味で言えば戦後も色濃く残った「封建的な」勢力に対してだけでなく、左翼(社会主義・共産主義勢力)にも否定的なスタンスを持っていた。それはソ連や中国、東ヨーロッパなどの体制が人権抑圧的であり、自由のない世界であることが少しずつ知られるようになっていったからで、日本の左翼の教条的な主張を強く否定するのがリベラリストであったからである。
しかし「意識高い」人たちからはそれは「保守反動」であるとみなされて攻撃されたり、また攻撃はされないまでも「軍国主義に対立して投獄された勇敢な共産党員」に対して「のうのうと娑婆で生きて軍国主義に有効な反対もできなかった腰抜けども」みたいに批判されていたわけである。
また、共産主義的な考えから言えば市民革命後の世界はブルジョアジー(資本家、金持ち)とプロレタリアート(労働者、貧乏人)の階級対立の世界であり、リベラルな考え方は「ブルジョア的」「プチブル的」と批判されていたわけだが、高度成長を実現した当時の経済の担い手の多くは保守的でありまたリベラルであったから、マルクス主義に染まった意識高い若者たちを「青臭い」「現実を知らない」と批判していたわけである。
したがって、今の人々でも比較的年齢の高い人たちの間で使われる「リベラル」という言葉はそうした意味での風雪に耐えた「リベラル」の観念がその言葉の裏にあるのだが、平成になって使われ始めた「リベラル」という言葉には別の意味づけが行われるようになったわけである。
世界的に見れば、イギリスの保守党と自由党の古典的な対立の時代においては、自由党はブルジョアの政党であり、貴族的な保守党に比べて進歩的と言われる政策を打ち出していたわけである。古典的な自由主義というのは市場を開放し自由競争を奨励し、機会に応じて自由に生きられることを目指す思想であった。
しかしそこには今から見れば欠けている視点があって、それは「貧しいが故に機会すら与えられない人たちがいる」ということだった。そしてそうした人々が社会的な不安定要素になってきたわけである。そこで実行されたのが「富の再分配・所得の再分配」という考え方で、つまりは所得の多い人から徴収した税金を所得の少ない人たちのために使う」という考え方が実行された。これはアメリカでは「有効需要の創出」「雇用の創出」といった形でニューディール政策で実行されたことがよく知られているが、古典的自由主義者たちは強く反対し、社会主義者たちは歓迎するということになった。そしてこうした「進歩的な」考え方に同調する人たちを「リベラル」と呼ぶ用法がアメリカで確立したわけである。
だからこうした意味での「リベラル」は「左翼」と相性がいいわけである。日本で従来使われていた意味での「リベラル」の人たちは左翼思想を「反自由主義である」として否定的に捉えていたし、左翼の側もリベラルの人に対して「ブルジョア主義である」と批判・軽蔑するというのが一般だった。
この構造に日本で変化が起こったのがポスト冷戦の1990年代、つまりはバブル崩壊後の金融敗戦の時代に、アメリカ初の新自由主義が日本でも席巻し、それに「対抗」する左翼的な傾向を持つ人を「リベラル」と呼ぶ用法が日本でも広がったのだろうと思う。
だから現在の日本ではリベラルの意味が非常に混乱していて、古典的な自由主義者=反福祉主義者でも自らを「リベラル」と呼べるし、福祉国家は受け入れるがwokeは受け入れない、という現代において常識的と思われる人たちも自分をリベラルだと考えているし、現代の意識高いwoke傾向の強い人たちも自らをリベラルと呼ぶし、極端な例では党首選も行わないような反自由主義的な日本共産党の支持者まで自分のことを「リベラル」と呼びだしているわけである。
このような混乱状況の中にあって、左派系の人々が「リベラル」を自称するのに嫌気がさした人たちが自分たちを「保守」であると称するようになり、「リベラル」がまるで罵倒語のように使われる傾向さえ出てくる中、リベラル左翼の中核である立憲民主党までが「中道」を称するという、「若者のリベラル離れ」ならぬ「日本社会のリベラル離れ」まで起こっているわけである。
ただ、比較的保守的な傾向を持つ人や左派に対しては批判的だが福祉国家は支持するくらいの人々の中にも自らを強く「リベラル」であると主張する人もまだそれなりに残っているので、「リベラル」という言葉によって一体何を表現しているのかはその人次第、という感じになっている。
少なくとも、現代は戦後の一時期に次いで「リベラル」という言葉の株価暴落時代であることは確かだと思う。
今後「リベラル」という言葉をどう救うべきか、それとも汚辱に塗れたまま放置した方がマシなのか、その辺りは議論されていっていいとは思うが、名が体を表さない時代にあってはこれまた「リベラル」という言葉の逆境は今後も続きそうだなという感想はもっている。
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https://www.sankei-books.co.jp/m2_books/2024/9784819114417.html
高市首相が政策通である、ということはだんだん認識されるようになってきたが、考えてみると私は「政策」というものをちゃんと勉強したことがなかったな、と思い、昨日は高市早苗編著「国力研究」を買い、また「日本列島を強く豊かに」と題された先の衆院選の自民党のパンフレットもダウンロードして読み始めた。「サナ活」と冗談めかしていっているが、読んでみるといろいろと面白い。(ちなみにこの本はアマゾンのアソシエイトから除外されているようだ)
https://storage2.jimin.jp/pdf/pamphlet/202601_manifest.pdf
政策とは「政治的な解決策」といっていいと思うが、つまりは何か問題があるから、それを政治的に解決していこうというのが政策ということになる。その問題の種類は国際関係から治安状態、安全保障、社会保障、法の支配、経済の円滑な運営、地域の発展の不均衡、富の格差、個人間に社会的に存在する非合理的な不平等状態、公衆衛生、医療、介護、エネルギー問題そのほか膨大なものになる。だから当然ながらその政策というのも膨大なものになるわけで、これらの全て、あるいは少なくとも重要なものを押さえるだけでも相当勉強しなければならないことは確かである。
高市さんはおそらく、自分の政治家としての強みを政策を理解しそれを推進することと見定めていると思われ、そういう意味でも彼女の打ち出す政策や国民に向けての発信に力がこもっていることは確かだと思う。
私は問題解決学としてKJ法を多少やっているのでそれに即して考えてみると、まず社会にある問題を認識する「問題提起」の段階から始まり、「状況把握」つまり調査を行い、その状況の影にどんな本質的な問題があるかを検討する「本質追求」の段階を経て、その問題の全貌本質が把握されたらその解決を行うかどうかの判断が行われ、解決を行うという決断が行われたら「問題の本質」に基づいて「方針」を決定し、その方針に基づいて「構想計画」が行われ、それに基づいて「具体策」が策定され、スケジュールやロードマップなどの「手順化」が行われ、予算がついて実行される、ということになるわけである。もちろん大きな問題は調査の段階から予算がつくこともあるし、それは問題によってさまざまなわけである。
政策は狭義で言えば「具体策」に当たると思うが、もっと漠然とした「方針」として打ち出される場合もあるし、「問題解決のために調査を行う」という決定自体が政策として取り上げられる場合もある。
私自身は今まで歴史を主に勉強・研究してきたから、「過去の様々な出来事や有様、行動からヒントを探る」のが主な活動であったために、これからのことを具体的に解決していく「政策」についてはあまり考えて来なかったのだけど、政治について考えるためには歴史の教訓だけでなく現実に展開されている様々な社会の出来事や政府が行おうとしている政策について考えていくことがより必要だと思うようになってきている。
歴史の重要性が自分の中で落ちることはないと思うけれども、政策についても学ぶことでより世界を深く理解できるように思うので、少し勉強してみたいと思ったのだった。
その内容についても書きたいことはあるが、時間がないので今日はこのくらいで。
総選挙三日後の右派と左派の泥試合:ポピュリズムという民主政治のバグ/「チームみらい」と「参政党」の「禍々しさ」/雨の「建国記念の日」に日本の未来を想う
Posted at 26/02/11
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2月11日(水・建国記念の日)雨
数日前の大雪と酷寒が嘘のように、今朝の最低気温はプラス0.6度で、早朝から雨が強めに降っている。今は上がっているようで、一時雪になるかもしれないのだが、また少ししたら雨が降り出す感じである。南岸低気圧の威力は凄い。もう少し大気の温度が低ければ太平洋岸が大雪になるところだが、南方からの暖かい気団の力が強いということなのだろうか。振れ幅の大きな気候である。シベリア高気圧は冷たい空気を溜め込み、息をするように日本に寒気を吹き付け、一時勢力を弱めて寒気を溜め込み、また寒気を吹き付ける、というのが仕組みだそうなので、「寒気のため込み」がなくなる季節になるまでは消長を繰り返すということなのだろうなと思う。
昨日は午前中会計の仕事にきてもらい、自分は職場などでいろいろな対応をしていたが、寒さ対策が不十分で凍結解除や雪かきなどが不十分になっていて、少し手を取られた。今日は祝日だから銀行も医者も休みでその分仕事がないのがありがたいのだが、書きたいこともいろいろ溜まっていて何を書こうか迷う。
今トイレに立って外を見たら雪になっていた。ストーブに灯油を入れようとしたら赤タンクが空になっていたので外タンクから給油。こういうのもある種の生活のリズムではあるのだが、急いでいる時には惜しい時間でもある。
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高市首相率いる自民党の圧勝と泥縄式に立憲民主党と公明党が合体した「中道改革連合」の壊滅に終わった衆議院総選挙後の政治情勢・言論情勢についてどういう論点があるかと思ってTwitterをずっと読んでいたのだが、あまりに膨大な「ちょっと考えてみたい」テーマがたくさん出てきて、なかなか整理に困っている。後になって「これを論じれば良かった」と思うことをいろいろ積み残しそうなのは惜しいのだが、全てに触れるわけにもいかないので的を絞っていくつかについて考えてみたい。
ここ二日ほどタイムラインを読んでいた感じでは自民党の内部からの岩屋さんや村上さん、石破さんなどによる「高市さんの思うようにはさせないぜ」みたいな蠢きであるとか、「どんどんやるぞ!」という小泉さんや鈴木貴子さんなどのツイートが目立ち、また立憲でも反省の弁を述べる人や泉さんのような現執行部批判を述べる人など、まあある意味当然だろうな(自民党の反高市派の動きは腹立つが)という動きが見られるという印象だった。それはこれほどの大変動の後だから当然だと思う。
しかし、今朝目立ったのはむしろ大勝した右派の側から左派リベラルに対して「こういうことだから負けたんだ」という批判が結構あるのに対して、というかこれは右派の側からも健全野党がないと困るから、という意味での「ライバルに対する激励」の意味合いもある(人もいる)と思うのだけど、それに対して左派リベラルの側が右派の言説に対して「左派に対する批判ばかり」だとか「左派の主張は偏差値60ないとわからない」みたいなどうしようもない反応が出てきて、そんなものには冷静に対処すればいいのに左派に対しててめえやる気かこのやろ、みたいな反応になって泥試合になっている感があるように思った。
これはまあ右派の側は勝った側の奢りみたいなものは確実にあると思うし、左派からの「左派は口が悪から負けたというが右派の方がもっと口が悪い」みたいな批判に対して、「右派の口の悪さってなんかあるかな?」と思ってしまったので、私自身もおそらくそういうエコーチェンバーの中にいるんだなと思ったのだけど、ただやはり左派による右派の無理筋の批判に比べればふつうに批判している人がほとんどだと思うから、やはりあまりよくはわからないなと思った。
左派による右派の批判というのは基本的に「ポピュリズムである」ということと「権威主義的である」ということが多いのだが、それにしたって「ママ戦争止めてくるわ」とかは明らかに左派ポピュリズムであるし、現在の国際情勢を無視した平和主義信仰も「憲法九条」を金科玉条とする権威主義に他ならないわけで、あまりその批判が当てはまるようには思えない。というか、もしそういう現象があるとしても、それは右派だけの問題ではないのだと思う。
ただ、民主主義社会において「ポピュリズム」というのは評価の難しい現象である。つまりは、ポピュリズムと批判されるということは「大衆の支持を得た」からこそであるからで、民主主義社会における大衆の支持が権力の基盤であるというのは当たり前すぎるほど当たり前のことであるからである。つまり、「ポピュリズム批判」というのはその結果ナチスが勢力を伸ばしたというような「民主主義のバグ」に対する批判であるから、バグを取り除こうとして民主主義自体を殺してしまうような危険が常につきまとうわけである。
しかし、左派からのポピュリズム批判というのはそうした危険についてあまりにナイーブというか何も考えてないように思われ、それが「偏差値60ないと左派の主張は理解できない」というような致命的な言説につながってしまうわけである。方向性はある意味違うが「参政党」や「チームみらい」がやっているのはある意味この「民主主義のバグ」にどう対処するかというところなのだと思うので、後ほどこれについては考えてみたいと思う。
そして右派色が強い(と日本では思われがちな)「高市自民党の圧勝」という結果を受けて、左派の批判は右派だけでなく大衆本体に向けて放たれているわけで、彼らの言説は結果的に大衆を馬鹿にしたものになっている。とりこむべき大衆を敵に回して選挙に勝てるはずがなく、また「そういうところだぞ」という批判を彼らは招いているわけである。
左派にとっての政治の理想はフランス革命のように民衆の直接行動によって封建的・権威主義的政府を打倒し、民衆が主体となって進歩主義的・左翼的な知識人を頭にいただいて革命政権を樹立する、ということであると思うのだが(みんなそうだとは言わないけどある種の理念型として)、実際のフランス革命についてここで考えてみるのもいいかもしれない。
フランス革命では革命が始まった当初から、フイヤン派(立憲王政派)・ジロンド派(大ブルジョア共和政派)・モンターニュ派(いわゆるジャコバン派、プチブルジョア共和制派)と権力が移っていったわけだが、これを推進する主体になったジャコバンクラブはこれら全てを包摂していたわけで、その内部がいわばどんどん「過激化」していったわけである。フイヤン派もジロンド派も「人民の擁護者」を自認しその座をめぐって争っていたわけだが、モンターニュ派のロベスピエールは「私は人民の擁護者ではない。私自身が人民だ」と宣言して主導権争いに勝利したわけである。そういう意味ではポピュリズムというのは民主主義のバグであるどころか、むしろ民主主義の核でもあるのだと思う。
今回の左派と右派の言説の争いでは、結局左派の側が「自分たちは大衆を指導する優れた知識人である」という自認を強く打ち出しているのに対し、右派の側が「自分たちは大衆そのものの立場に立っていて、そんなありがたいご指導は必要ないし願い下げだ」と反発しているという構図になっているわけである。
民主主義というものが「国民=人民主権」という原則で成り立っているものなのだから、大衆=国民に拒否された左派が勝てるはずがない。
中道が失敗したのも、端的に言えば無自覚な政治エリートである立憲の議員たちが胸襟を開いて創価学会の人たちと同じ釜の飯を食うことを怠ったからだろう。逆に言えば、自民党の強さはそれができるところにある。
私が投票した東京15区の大空こうき議員も最初の選挙の時はかなりNPO臭く、いずれ山崎・木村・柿沢ら元からの保守系に議席を取り戻されるのではないかと危惧していたが、今回の選挙はずいぶん自民党の候補者らしくなったと思う。自民党にはそういう「教育力」があるわけである。期待したいと思っている。
だから、左派が権力を取り戻そうとすれば、エリートの自認に安住するのではなく、「大衆の中へ=ヴ・ナロード」入っていくことが必要なわけであり、そういう意味では文化大革命における毛沢東の「下放政策」も正しい面はないわけではなかったわけである。ロシアにしても中国にしても民衆社会の苛烈さがナロードニキや共産党幹部たちの思惑を遥かに超えていたから失敗したけれども、ある意味高度に発達した民主主義社会である現在の日本において、「創価学会の人たちと同じ釜の飯を食う」ことくらいがやれないで民主主義ができるか、とは思う。
私は自民党支持だが、健全野党が存在せずに政治がバランスを持って維持されることは難しいと思うので、野党の人たちには頑張って成長してもらいたいとは思う。一番期待しているのは国民民主党だが、立憲の中にも芽のある、可能性のある人はあると思うので、更なる成長を期待したい。2009年総選挙で下野した自民党は文字通り小さな村の寄合から回って人々の声を改めて聞き、2012年総選挙で「アベノミクス」を旗印に復活したわけであり、同じことがやれないはずはないだろうと思う。こういうことはむしろ左派政党がやるべきことだと思うのだが。
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「ポピュリズムという民主主義のバグ」についての二つの処方箋という意味で「参政党」と「チームみらい」がある、ということを上に書いたのだが、まずチームみらいから言うと、この党の本質は「高学歴富裕層のテック左翼政党」ではないか、ということは今までずっとTwitterでは書いてきたのだけど、下のnoteを読んで私の認識は間違ってはいなかったがもっと面白い政党だなと思うようになった。
https://note.com/kozijp/n/n1c3ee339b28a
執筆者の中川コージさんは同じようなAIの政治行政への導入を訴えて10年ほど前に自民党から立候補した経験もお持ちだということで、これらの分析にもかなり説得力があると思った。書いておられること全てが妥当なのか、ちょっとこのナラティブに私自身が取り込まれていないかということを警戒する面もあるのだが、チームみらいの分析についてはそれなりに妥当であることは言えるだろうと思う。
チームみらいに関しては右派の側はその左派性への警戒心が強く、左派の側はその「過知性」的な言説や「いつでも自民党と連立OK」みたいな姿勢への警戒が強いようだが、中川さんが分析するように元々は無色透明であったのがwokeっぽい教育を受けた若い人たちに支持されるために左派的な政策を打ち出しているに過ぎないところもあるし、連立OKというのはAIをはじめとする技術によって行政を効率化し富裕層若手エリートにとって暮らしやすい社会にすればいいし出来るという自負があってそのように言ってるのだろうと思う。すでに自民党の鈴木貴子さんのような若手からは共感するというメッセージが出たりしている。
実際にチームみらいがどのように発展し政治の現実と関わっていくかはまだよくわからないけれども、私自身は彼らにそんなに共感しないし政権を委ねたいとは思わないし、左右両派の主張通りの危うさみたいなものは感じる。ただ、私の考え方や姿勢に関わらずこうした社会のテクノロジー化は進展していくと思うから、どこかで彼らを止めないといけないとしたらどういうところかということを少し考えてみた。
一つは、テクノロジーの国民化の過度の推進だ。私はマイナンバーカードも作っていないくらいなのであまりこういうものを好きでない面もあるのだけど、それでも十分やっていける現在のような社会が望ましいと思っている。大学入試がセンター試験から共通テストになった時も、英語の試験は民間試験で代用するという方向性があったように、効率一辺倒の考え方が教育に導入されることにも警戒はしている。
効率化に対する反対の意思というのはつまりはマインバーに関しては「国民の実態を無視している」ということがあるし、行政の負担が大きすぎるというのもある。例えば免許試験場で免許更新の際にマイナンバーカードを作れるなら私自身は多分作ると思う。教育の方で言えば、国民の教育に対する責任を民間に丸投げするという姿勢について反対だということであり、教育の受益者は子供と親だから彼らが教育に対して責任を持てばいいという考え方にも反対で、教育には学力や体力を育てるという受益の面もあるが国家社会を担う公民を育てるという国家の使命もあるはずで、それに対する国家の責任や権限は放棄すべきではないと考えるからである。
まあその辺りを勝手にどんどん効率化しそうなイメージがある点でチームみらいに対する警戒心はある。
もう一つは、あまりに無色な理想主義的な政党が力を持ってきたら、さまざまな狡猾な政治勢力の餌食にされる可能性があるという心配である。特に、なんとなく支持を得るために左派色を出すことによって、左派系の反差別団体やLGBT、フェミニズム団体などにつけ込まれて彼らの利権確保に使嗾される恐れを強く感じるということでもある。これは暇空茜氏などの右派系の主張をする人たちが共通して持っている懸念だろうと思うし、この点に関しては私も同じような懸念は持つ。
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https://note.com/kozijp/n/nec607437fe21
参政党に関しての方がわかりにくい感じがした。ある意味宗教的な独裁政党であるけれども、最初に規定されたナラティブがないのでその時その時に視聴者(党員)参加型で新しいナラティブが作られていく、連載マンガのような新しい展開を楽しめるというところはなるほどとなんかわかったような気はしたのだが。
そういう意味で言えば、前回の参院選は「日本人ファースト」というナラティブを党員以外にも大ヒットさせたわけで、今回の「一人一人が日本」というナラティブはちょっとスカだったということなのだろう。レーニンのソ連共産党にしてもマルクス主義をそのままではなく(そのままだとベルンシュタイン的修正主義方向にいく可能性が高いので)レーニンの思想を加えて「マルクス・レーニン主義」として発展させたからこそ「巨大国家を統治する共産党」という新しい発明品を作れたわけであり、それに毛沢東がまた独自の思想・ナラティブを加えて作り上げたのが中国共産党だということになる。そして現在の中国共産党はさらに鄧小平思想を加えて資本主義にも対応できる思想的幅を広げたが、さらに習近平思想を加えて自縄自縛的になってる感じはある。
垂秀夫・元中国大使の本で、先輩に「毛沢東とレーニンを読め。マルクスはどっちでもいい」と言われたのは本質をついていて、理論の祖型はマルクスが作ったとしても国家を統治する共産党というすごい発明品を作ったのはレーニンだし、それを中国に当てはめることに成功したのが毛沢東なのだから、中国政府と交渉するための前提として知るべきことはレーニンまででいい、ということなのだろうと思う。
この考察では参政党と中国共産党の共通点から参政党の未来を占うという興味深い考察になっているわけだけど、参政党が理解しにくいのはそれが「党員のための共益」の政党であり、「国民のための公益」の政党ではないからだ、という指摘はなるほどと思う。基本的には「響く人に響けばいい」という運動であって、それが結果的に国民全体を巻き込めばいいという方向性なのだろう。日本の政党運動としては日本共産党や公明党により類似した部分が強いということなのだろう。ただ共産主義や日蓮正宗・池田大作思想のような所与の思想がないからわかりにくいけれども「神谷宗幣作の連載物語」がその柱にあるというのはそうなのだろうと思う。そういう意味ではつまりは現在進行中の黒歴史、もとい「現在作成進行中の聖典」が後になってこういうものだったということになるのかもしれない。
日本共産党はマルクス・レーニンはおろか宮本顕治や不破哲三まで亡くなってしまったからもう思想的発展性が止まっているように見えるし、公明党も日蓮や牧口常三郎だけでなく池田大作も亡くなったから新たな発展もないように見えるので、その思想を「勉強」することはある意味容易だと思うが、現在作成中の神谷宗幣氏の思想はべったり参政党組織に漬からないと学習も難しいと思うので、部外者がこの政党とどう関わるかというのは結構難しいことだという気はする。
「日本人ファースト」などは正直私自身も共感する考え方であったけれども、だからと言ってなかなか支持もしにくいのはそういうわからなさ・理解しにくさなんだろうと思う。逆に懸念点もうまくまとめにくいが、ただ今回のように国民大衆が高市支持に回っている時にあえて自民党攻撃に出るというのは組織の引き締めを狙っているのだろうから、侮れない政党ではあると思う。まあつまり、「参政党は侮れない政党だという認識を持つこと」自体が参政党に対する現在のスタンスだということになるかと思う。
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今日は建国記念の日。紀元2686年。神武創業のみぎりに思いをいたし、日本の未来を静かに考察するのも良いかと思う。
高市総理が勝ち中道が壊滅した理由:「組織票も生きた人間が投じている」/高市さんは「白々しい」か/「やはり」「本当に」「しっかりと」/「戦争を止める」/のんびりと冬の日
Posted at 26/02/10
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2月10日(火)晴れ
昨日は1日のんびりしてしまった。のんびりしてしまったのはいいのだが、家にいるとついスマホやパソコンを見てしまうので、目の疲れは取れない。むしろ外に出て動いていた方が目の疲れは取れると思うのだが、なかなかそうならないのは冬のせいでもある。他責思考。
夕方出かけて岡谷の書店にでも行こうと思ったのだがどんどんズルズルと遅くなり、結局駅前のスーパーで夕食と米を買うくらいしかできなかった。録画をかけておいて、帰ってから7時のニュースを録画で見た。
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選挙関連の報道を見ていると政治家がいろいろ喋ったり演説したりしているわけだけど、その中で頻繁に出てくる言葉があり、私が一番耳についたのは「やはり」「本当に」「しっかりと」の三つだった。政治家のモノマネをやろうと思ったらこの三つをどうしっかりと使うかでやはり本当に政治家っぽくできると思う。
「やはり」というのは普段訴えていることを繰り返すことになるから、同じことを言うので「やはり」が頻出するのだと思う。また選挙民の状況や自分の真摯さを訴えるために「本当に」お困りだとか「本当に」気合を入れて「しっかりと」実行していく、みたいな感じになるのだろうと思う。
政治家の言葉といえば、高市総理が爆笑問題の太田さんにyesで答えてもnoで答えてもマイナスイメージなる質問をされて「意地悪な質問やな」と関西弁で答えて言葉を詰まらせていた、と言う話をよく見るのだが、論理的に質問しているのに関西弁で答えるのはズルい、と言う意味の言葉に対して「方言差別だ」と言う趣旨の批判があったりしたのだけど、これはそう言う趣旨ではないんじゃないかなと思った。
標準語で感情を伝えると角が立ったり子供っぽく感じられたりするけど、関西弁ではあまり角が立たない日常的な感じで感情を訴えられると言う利点があるから、論理的に話していると思っている方にはやりにくくなる、というのはわからないではない。この手は男性でも使う人はいる。昔なら塩爺(塩川正十郎)とか割とうまかった。
私の友人に高市さんを嫌っている人がいて、それは彼が左翼的だからだと思っていたのだが、「高市さんはしらこい=白々しい自己演出をする」と言う意見をネットで読んで、なるほどそう言う感じかと思った。そういえば「白々しい」と彼も言っていたのだが、どうも私はあまりピンと来なかったわけである。
そう言う目で見てみると確かにある意味しらじらしいとは思うのだけど、あのくらいの自己演出は東京で生きていると割と普通のことなので、東京人にはあまり気にならないと言うことなんじゃないかと思った。またそう言うのが関西にも浸透してきていて関西でも人気があるようになったと言うことかもしれない。
それもまた東京弁でやると嫌味なんだけど、関西弁だとかなり緩和される感じがある。吉村さんや高市さんは「ええ人」のパブリックイメージをうまく作ったので、しらこくても「なんかあるんやろな」で勝手にいい方に聞く方が読み替えると言うことがあるのではないかと言う気がした。
「高市さんは頭があまり良くない」みたいなのを読んで驚いたのだが、全然そんなことはない、さすが神戸大学卒だとしか思えない。また、「大阪のおばちゃん」のガワをうまく利用して親しみやすさを演出している。実はバリバリなんだけど、その中身をうまく受け入れやすく表現していると思う。衣の裾から鎧が見えることは時々あるとは思うけれども。
昨日の記者会見や自民党の役員会での表情を見ていると笑顔が消えていて、総選挙という大ヤマを乗り越えていよいよ本番、と言うことなんだろうなと思う。リューマチが痛いからかもしれないのだが、選挙前のにこやかな雰囲気が消えている。政治家は休んだ方がいい時に休めないのが辛いところだが、休める時にはちゃんと休んで体調を整えて取り組んでもらいたい。
女性として高市さんほどの権力を握った人が日本史上いるだろうかと考えてみると、北条政子が直近の例かも、と思った。彼女も承久の乱で鎌倉武士達を鼓舞して316議席を取る大勝を収めたわけで、鎌倉幕府はそれで基礎が固まったわけだが、北条泰時のように新しい政策も打ち出していくことになるわけで、現代の政治家は大変だなと思う。
高市さんが勝って中道が負けたのは何故かと言う話で、「高市さんはdisらない」と言うことを言われていた。野党の側はどうしても政権批判が中心になるが、逆にいえば一般の有権者、特に若い人には「自分たちが何をやりたいのか全然言わなくてdisってばかりいる」と見える、と言う話は本当にそうだろうなと思う。今回、参政が伸び悩み中道が大敗しれいわや社共が壊滅したのはその辺の有権者の空気を読みきれなかったのだと思う。
中道大敗に対して恨み言を言う知識人や大学の先生の発言など読んでいても、少数者だけがひどい思いをしているのに救われない、みたいなことを書いていたりして、「人間、生きていればみんな大変なんだよ!」と言うことに対する同情や共感がないのが致命的だなと思った。それに対して、高市さんの演説は一人一人に語りかけてこう言うことをやりたいのでやらせてほしい、と聞こえるから、よしわかった投票しよう、となるのだろうと思う。ネットでレスバする中高年と違って特に若い人は人をdisる言葉は自分に対してのものでなくても大変苦手なんだろうと思う。その辺りに対する共感と理解がないことは大きい。
また、「ママ戦争止めてくるわ」を使う人たちに対しても、今の若い人は日本から戦争を起こすような状況というのは現在の国際情勢からあり得ないと言うことを知っている。だから、あり得ないことを大真面目にいうからオカルトっぽく聞こえて嫌がられるのだと思う。
より現実的な中国やロシア・北朝鮮の脅威について考えることを優先することを共通理解にすべきだと思うが、「日本が戦争を起こすのを止める」と言うカビの生えた信念が戦後民主主義の教義になってしまっているので、それを変えられないから若い人がついてこないと言うことはあるだろうと思う。
これに関連していえば、私は「チームみらい」の安野さんにはほとんど共感しないのだけど、一つだけそうだなと思ったのは、「憲法九条が現実から乖離しているから、憲法という国の基本法の権威が損なわれているので、改正すべきだ」ということを言っていたことで、これはなるほどその通りだと思った。
法学者の間でも憲法学者というのはちょっと独特の目で見られるというか、あまりいい感じに言われないことが多いのはそういう「教義っぽい」というか現実的でないことを金科玉条にしているというか、現実面をどう処理するかが法学の問題なのに宗教論争ばかりしているという印象があるようだ。
国がどのようにあるかを定めるのが憲法であり、だからこそ憲法は「国体」と同じconstitutionの訳語でもあるわけだから、それ子を日本の国体を定める憲法を権威あるものにするために、そこを現実的なものにしなければいけないというのはまさにその通りである。「必ずや名を正さんか」と孔子も言うように、まずは現実を支配する字義通りのものにしなければ権威は生まれない。これはその通りだと思った。
中道≒立憲民主党は何故負けたのか、と言うことについての考察。これは全くその通りだと思った記事とそれに言及した連ツイ。
https://president.jp/articles/-/108861
https://x.com/Yaruo2024/status/2020816118005346798
「組織票に依存する選挙では、候補者の言葉は「政策」より先に「関係性の確認」として受け取られる。その作法を理解していなかったこと自体が、今回の選挙の構造的な弱点だった。」
「組織票」とは何か、どう言うものか、と言うことについて私もあまりちゃんと考えて来なかったと言うことがよくわかったのだが、これは労組や会社の組織票などのように利益で結びついているものと、宗教団体、特に創価学会による組織票というものは性質が違うということがよくわかった。
創価学会の人たちは前回まで自民党と一緒にやってきていて、政策については疑問を感じながらも「持ちつ持たれつ」という関係性から頑張って応援してきたのだろうと思う。それが今回は急に立憲民主党の候補を応援するようになったわけだから、まずは「この候補者はどういう人なのか」「我々とちゃんとうまくやってくれる気があるのだろうか」ということが一番気になるのは言われてみたら当然のことだと思う。
それであるのに自分たちが複雑な思いを持つ小沢一郎を持ち上げたり、「通り一遍の経歴紹介や政策論ばかりで、私たちの心に寄り添うような言葉がまったくなかった」りすれば、がっかりするだろう。
「例えば『同級生に学会員がいて、そいつが良い奴だったから学会の印象も良い』とか、嘘でもいいから学会員に寄り添う姿勢を見せてくれたら、私たちだって『じゃあ応援してみようかな』という気持ちになれる。」というのは本当に人間性の機微で、いくら宗教団体だって人間の集まりなんだから、応援したいという気持ちにならなければ「今回はこの人に」と積極的に他の人に働きかける気にならないわけである。
一方で辻元清美参議院議員は、「過去に公明党や創価学会と激しく対立してきた経緯があるが、今回の選挙戦初日には応援に入った街頭演説で深々と頭を下げ、これまでの非礼を詫びることから演説を始めたという。この「けじめ」が関西の学会員の琴線に触れ、一定の支援を引き出した」というのだが、これはある意味政治家として当たり前のことであって、それすらできているのが辻元さんくらいだったという方が驚きである。
読んでいて、「こんなことで立憲の議員が当選するはずがない」と思ったし、逆にいえばそういう意味で人の心がわからないからこそこの時代に左翼とかリベラルとか言ってられるのだろうとも思うので、まあ宿命だったのかもしれないとも思った。多分この辺は、創価学会の人たちに対するのと労働組合の人たちに対するのとでは若干の違いがあるのだろうとは思うのだが。
いずれにしても、旧立憲民主党の議員達が「人の心を理解し、それを励ますような言葉をかけ、この人ならやってくれる」と感じさせる、少なくともそのように振る舞えるようにならなければ、中道改革連合の試みは失敗に終わるだろうと思った。そんなに難しいことかなという気もするのだが、左翼のヒトビトや立憲れいわの議員達の振る舞いを見ていると、まあ難しいんだなと思ったりはした。
豪雪選挙で自民圧勝/翼賛選挙に匹敵する与党獲得議席/「平成民主党政治」と「戦技民主主義」のとどめを刺した「戦争反対ポピュリズム」/高市首相の勝負感と勝負強さ/今後の展望
Posted at 26/02/09
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2月9日(月)晴れ
今朝はこの冬一番の冷え込みで、最低気温はマイナス11.7度だったのだが、天気がいいのでだいぶ気温は上がってきたようだ。昨日は朝はそれほどでもなかったが昼も寒くて、真冬日になっていた。
昨日は弟夫婦が地元に来て母を施設から連れ出して近くのレストランで食事。その後別の施設に入居している叔父のところを訪ね、久しぶりに話ができた。土曜日に私が行った別の親戚の葬儀の話などする。3時過ぎに叔父の施設を出て母を施設に帰し、そこで解散。弟は東京に帰るのに中央道が閉鎖されていて、結局和田峠を越えて関越自動車道に出て帰ったらしいが、かなり大変だったなと思う。
昨日の夜はニュースを見て、開票速報を見ながらご飯を食べる。豪雪の中の選挙で自民党圧勝。今までで一番自民党が勝ったと思う。1890年の第1回総選挙から調べてみたが、政権与党(のようなもの)が4分の3以上取った選挙というのは1942年の第21回総選挙、いわゆる翼賛選挙だけで、この時は政権に推薦された議員が466議席中381議席(81.8%)取ったわけだが、これはむしろ逆に非推薦で当選した議員が85人いた方を評価すべきだろう。非推薦の当選者の中にはのちに首相になる鳩山一郎、河野太郎衆院議員の祖父である河野一郎、後に社会党右派で農林大臣にもなる平野力三、作家星新一の父である星一、戦後右翼の重鎮になる赤尾敏、憲政の神様・尾崎行雄、そのほか戦中戦後史に名前を残す人たちが多く当選している。推薦され翼賛政治会に属した議員たちの多くは戦後公職追放されているので、独立を回復するまで復帰できない人も多かった。
https://www.asahi.com/senkyo/shuinsen/
それはともかく、今回は当時とほぼ同じ465議席のうち自民党が316議席、維新の会が36議席で合計352議席で4分の3を超えた。比較対象になるのが翼賛選挙しかない。翼賛選挙は普通の議会政治とは異なる状況で行われているので、まさに史上空前の大勝利ということになる。そしてそれが日本初の女性総理大臣である高市早苗氏の手によって実現したということもまた、新しい時代のスタートと言っていいだろうと思う。
今回の総選挙は語るべきことが多く、テレビやネットなどで情報を収取し、またさまざまな考察について考えていたりしたため、いつもなら朝のうちに更新するところを書いている今は昼を過ぎてしまっている。
その中で色々気になったところ、考えたところを列挙しながら考察していきたいと思うのだが、まずは今回は小選挙区制の真価が発揮された選挙だと言っていいだろう。小選挙区289のうち、自民党がとったのが249議席で、これは占有率86%。翼賛選挙を上回る獲得率になるわけである。
そして比例区の獲得数は67だが、実は小選挙区で東京が30勝0敗、神奈川が20勝0敗など議席を独占したために比例復活する候補が少なく、実に14議席(南関東6、東京5、北信越2、中国1)を他党に与えることになってしまったわけである。こういうケースは最近国民民主党で2度ほどあったと記憶している。またチームみらいも近畿ブロックで二人小選挙区と重複立候補したものの復活条件の1割の得票数を得られず議席を得ることができなかった。「山が動いた」と言えるほどの大変動であればこそ、得票数に候補者数が追いつかないという珍現象が起きてしまったわけである。
また、今回の選挙結果の歴史的な意味はどういうことか、ということについていろいろ書いている人がいて、大きく行って二つの時代が終わったと言えるという見解があった。それは二つとも、中道改革連合、特に旧民主党系の惨敗ということに関連してということになる。
旧民主党系の大物議員としては、1993年の非自民連立政権成立の立役者だった小沢一郎氏をはじめ、民主党政権の中心を担った岡田克也、枝野幸男、安住淳、玄葉光一郎、海江田万里、逢坂誠二などの各氏、その他にも元新潟県知事の米山隆一、武蔵野市長の松下玲子氏らが落選し、長妻昭氏が僅かに比例で復活した。当の革新を訴えていた泉健太元代表が孤軍奮闘という感じである。そのほか笠浩史国対委員長も当選している。
これらの大物議員の落選は、まさに「平成時代=非自民連立から民主党政権」の時代の終わりを象徴するものであるだろうし、また選挙中に現れたさまざまな現象、中国の圧力に対する自由主義世界防衛のための防衛費増額路線を「戦争をするための軍拡」と位置付ける古い平和主義・民主主義の終わり、特に投票日直前になっていきなり現れた「ママ戦争止めてくるわ」という発言など、「日本の起こす戦争」という非現実的な心配はするくせに「中国やロシアの起こす戦争」については全く口をつぐむような左翼リベラル、つまりは「戦後民主主義とそれに基づく平和主義」の時代が完全に終わったということになるのだろうと思う。
今回の立憲の敗因はいろいろと語られているが、一つにはそうした「戦後民主主義的ポピュリズム」への反感、それから自民党との連立を離れたばかりの創価学会を母体とする宗教政党である公明党との「組織票欲しさ」としか見えない「中道改革連合」への反発が明確な形で現れたということだろう。
逆に自民党の勝因は、「史上初めての女性総理大臣」というインパクトに加え、清新な溌剌とした印象の内閣メンバー、特に小泉進次郎防衛大臣の進境の著しさ、女性閣僚や自民党の女性役員の活躍、公明党に見捨てられギリギリで維新と連立を組んだ少数与党を率いる高市首相に対する同情、そして何よりもこの異例な2月8日という時期に総選挙を決断した勝負感の鋭さにあるだろうと思う。
もちろんその背景には総裁選での勝利を決定づけた麻生副総裁の「党員の支持の多い方に投票すべき」発言からできた流れに乗って、総裁に当選し、その後も持病を抱えながら適切な政治的判断をし、また論争相手を非難せず前向きに自分のやりたいことを主張していく高市首相の姿勢、また言わないでいたことをはっきり言ったために中国を激怒させた台湾有事発言も結果的に高市支持につなげるぶれない態度と強運のようなものも含めて、「高市首相の勝負強さ」に由来するところが大きいだろう。
この圧勝によって自民党は石破・岩屋・村上といった反高市的な議員も軒並み当選したために党内基盤を危ぶむ声もあるが、今回の総選挙によって復活できた旧安倍派をはじめとした議員たちや新しい議員たちなどは強く高市氏を支持するだろうし、そうした意味での党内基盤もかなり強化されたように思う。しばらくは安定した政権運営ができるのではないか。むしろ高市首相の体調の方が心配なくらいである。
また大阪では相変わらずの維新の強さで、小選挙区では自民党が1議席取った以外は全て維新、落選した19区の議員も比例復活した。他の地域では相変わらずそれほどは振るわないが、自民党との連立政権ということで特に大阪では支持が固まったところもあるのではないかと思う。
そして今回、個人的に印象に残ったのが二人の元民主党議員の復活だった。
一人はれいわ新撰組で自民党の比例議席が回ってきた山本譲司さん。もう一人は東京26区でチーム未来で立候補し比例復活した宇佐美登さん。宇佐美さんは1993年と2003年に当選し、長いブランクの後2026年に三選。山本さんは1996年から2回当選したが秘書給与流用疑惑で服役。まさかこんな逆風選挙で比例復活とはいえ当選するとは。人生は本当にいろいろなことがあるなと思う。
戦後民主主義80年というのはなかなか実感が湧きにくいが、1993年の非自民連立政権の成立=自民党下野から始まる36年間というのはまさに私がずっと投票してきた期間でもあり、ついに民主党人脈が絶たれたというのはある種感慨がある。実際、考えてみると戦前の政治史が議会中心に華やかに行われた日露戦争後の1905年から、日中戦争が始まる1937年までよりも長い期間になるわけである。確かにこれは一つの時代であり、それが終わったということは、新しい時代が今日から始まるということであり、この先の時代を思い描いていくことが今の我々一人一人に可能だということになるわけである。
世界情勢は激変しつつあり、戦後世界を仕切ってきた国連も各常任理事国も変質してしまって、戦後の安定は失われつつある。その中で日本は民主主義のルールを堅持しつつ新しい時代に出発できるわけで、まさに日本社会の安定があってこそのことだと思う。
これからもこの社会の安定を大事にしつつ、国民生活をより豊かにしていくための経済政策や、結婚し子供を育てていくのにふさわしい環境を守り、戦争の起こらないような外交力や防衛力を維持しつつ、「強く豊かな」日本列島を築いていくために政治の力も経済の力も日本人一人一人の力によってより安定した豊かな日本と世界を作り上げていくことができたらいいなと思う。
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